常識と価値観

友達と日々感じることについてあれこれと話すことが僕は好きだ。誰とでもできるわけではないから、そういうことを話せる人を大事にしたいなって思う。友達と話してて前にはそんな感覚を持ち合わせてたなって思ったことがある。

常識と価値観。社会の一般的な常識と自分の持っている価値観。日本という国はこの常識について厳しい気がする。自分が思っていた社会の見方が間違っているのだと、親や周りの社会人から指摘されることはよくあり、その度に自分の社会への見方(価値観)は間違っていたんだって感じ、落ち込むこと、自分の頭の足らなさを恥じることがある。

だからなのかはわからないけど、常識的にとかこの考え方ができないのかと他の人に対して落胆してしまうこともある。よく考えれば、非常に性格が悪いことだ。とにかく、僕の持っている価値観は社会の常識とマッチしていないんだろうなっていう感覚がある。(この社会の常識は僕の親や周りにいる社会人が教えてくれる社会のこと。それが正解であるのかは僕は確かめたりしてはいないけど、それなりに僕を思ってもらった言葉はその人の歩んできた人生のなかでの常識なのだろう。)

友達と話していたことに話を戻す。その子は新卒で今年就職してSEになった。仕事の話になったときにその子がSEになろうと思ったときの話をしてくれた。彼女は先輩がSEになったことを聞き、”エスイー”という言葉の響きがかっこよく聞こえて、自分もSEって名乗ってみたいと思い、SEを目指そうと考えたそうだ。当然、こんな理由だと就職の面接は落とされるので、彼女なりのちゃんとした理由を考えていったそうだが。根本の理由は"かっこいい"から。びっくりしてしまった。その他にも、楽しそうだから、面白そうだからで何かを始めることに、やることは多いと彼女は言っていた。

大学院一年生になって、”就職活動”っていう言葉が少しづつ聞こえるようになってきた。先日はマイナビの就活スタート講座みたいなのを受けた。自主的に受けたからこんなことをいうのは良くないのかもしれないけれど、やっぱりああいう外部講座は好きではない。ああいうイベントのなかで言われることは、やらなくてはいけないことだと感じてしまう。過去のデータに基づいて「先輩たちはこういう就活をして来た」「この時期にインターンを受けていた人は、内定をこのくらいもらえている。」内定をもらえる最短ルートを教えてくれていそうでありながら、ここからはみ出すことが怖くなる意識を植え付けられる。それはぼくがこれまである程度世の中のレールの上を走ってきて、それなりの位置にこれた人間だからだろうって思っている。

就活において、動機を聞かれることはよくあると思う。何をきっかけにして、何を考え、何になろうと思ったか。そして何がしたいか。就活検定3級(就活検定は五段まである)の僕は、それをしっかり組み立てて、誰にも有無も言わさないものを考えなくてはいけないと思っていた。どんな人でも納得する志望動機が必要だと。しかし、友達は言った、元々の志望動機はかっこいい、私もエスイーって名乗ってみたいからだって。その子は就活検定を受けていなかった。

世の中にはこうなっていたほうがいいというレールがあると思う。新卒は就職したほうがいいというレールが。インターンは夏にはいっておいた方がいいというレールが。そこのレールに、はまるかはまらないかはその人の自由だ。しかし、僕はまだ、そこから出る決意を持ち合わせていない。それは自分自身の価値観は間違っているって感じているから。あっているといわれている方に行かないといけないと感じているから。

こんなことを思う僕だけれど、この前少し友達と話して救われた。自分の価値観でレールを作り、そこの上で生き生きとしている姿を見れたからだろう。嬉しかった。

常識は多くの人の価値観から作りだされてくる。そして、その価値観はその人が歩いた道のなかで出来上がってくる。自分の価値観をある程度常識としたいのなら、、、



このnoteもとやかく言ってますが、全部僕の価値観です。

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