ところで

善と悪の間の無限のグラデーションは各人の切り方にかかっていて、まあつまりそれだけ無数にあるわけだからグラデーションと言ったのだが、それらは全て狭間であって、中間であって、その善悪どちらでもない。それが善悪を与えられるのは何らかの絶対的視点に基づく相対性があるときだろう。そして、視点=切り方、だからそれは無数にあって事象的なグラデーションであり、その無数の中で同じ切り方は出来ないから、「違うのは当たり前だよね〜」「絶対性ってないよね〜」。

しかし、同じ切り方は出来ないとは言っても、その切り方を真似しようとする事で、共感とか、相手の気持ちになって考える、とか、更にいけばキャラクターの演技においてもそれまでの自らと異なる、より対象へと近い切断をするようになる。ミメーシスだろうか。

いわば、今、認識される対象は各切断面へと導入するノードなのだ。そして認識される度に、フラッシュ撮影された部屋の如くその無数のノードの関係性があらわになる。粒子と波動の二重性だろうか。

しかし主体的視座的に明らかになっていない間もそれは常に水面の如く蠢いている。我々はその複雑怪奇なその水面の波を乗りこなして行こう。これは同時的である。

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