図説

 かつて高校生の時、メモ書きに「自省出来ないやつは自覚が出来ない。そしてそれに加えて自制も出来ない奴が多い。彼らは自分の手がいかに汚れていようがそれを理解出来ない。なのにベタベタと勝手に追い回して触ってくる。ヘドが出る。」などと書いたのをよく覚えている。
これは未だに真理だと思う。当然、全てを自覚する事は不可能だろうが、自覚が出来る/出来ないというのは人となりをかなり左右する。自覚出来ていなくても自制出来る人間は全然良いが、まったく自制もできない奴は果てしなく醜い。と個人的には感じる。
逆に自覚していてあえて自制しない人間はずる賢い。「自制できない」ではなく「ただ自制しない」でもなく「あえて自制しない」人間だ。
ここのところの自分はこれをやってみようと思って過ごしていた。が、当然ながら自分と言うものの何もかもは、それまでの積み重ねによって形成されるもので、急にまっさらにして変えようと思っても立脚点が無いからすぐに瓦解してしまった。
しかし、経験してみていくつか分かった事も確かにある。まず、ずる賢い彼らには罪悪感がない(或いは薄い)。自分のような人間はどこかで必ず、何時でも罪悪感を抱えていて、何をするにもそれがつきまとう。ずる賢い人間をしばらく演じてみると罪悪感が確かに薄まっていくのを感じたし、以前は忌むべき悪事と思っていた事も出来てしまった。が、まあ、自覚と罪悪感によって我に返ってからは既述の通り瓦解して、ずる賢い人間と元の自分との間を行ったり来たりしているのが現状だ。故にこの事についての結論のようなものはまだ述べられ得ないだろう。

閑話休題

 自覚する、というプロセスにはタイムラグがある。何かを感じている時、あるいは何かを思っている時というのは確かにリアルタイムなのだが、脳内での話であっても、言語化をするというプロセスを踏んだ時点で既に過去に遅れている。
言語化による遅延。言語化されている=我々の認識下であるということはつまり、既に起きたことなので三次元的であり、それは切断された時間平面であり、過去である。そして感情とはシナプスの発火であるから、正確には非常に刹那的な幅のうちにある。また、そのリアルタイムは経験であり、認識され得ない。しかしながら我々の経験はそこにしかなく、我々はそこに生きている。
つまるところ、我々のうちで "生" (セイ、あるいはナマ)と呼ばれるのはこのリアルタイムの事であり、全ての事象はここで起きる。しかし上記の通り言語は三次元的であるが為にリアルタイムたり得ない。"生" から断絶される。

我がコミュニケーションの不全の原因はここにあるのである。リアルタイムに対して、それに対するリアルタイムの反応をする[補足→言語の方がそれを扱う主体に対して遅れる]のではなく、脳内で言語化が起きてから感想を想起させられる。つまり、リアルタイム→言語化完了→それについて想う→、というタイムラグがある。これにより、リアルタイムで起きているコミュニケーションに対して遅延してしまうのでリズムが生まれない。自己完結してしまうから互いの身体性が関わり合わない。刹那の時間に置き去りにされてしまう。
付け加えると、この遅延の形式が故に、疎外感を感じる。ノリが合わないだとかノれない、他にも気分が乗らない、というのは内々での言語化とそれによる遅延化→自己完結が一因として言えるだろう。

全ては相縁。独立してあるものではなく、また原因に因ってあるのでもなく、どちらかというと全てが全てに相互に依ってある。そしてそこに切れ目はない。切れ目を仮設するのは我々だろう。だから、曖昧な表現にはなるが、自覚によって自己をリアルタイムから切り離して三次元的に独立させるならば、絶縁の痛みを感じるのは必定なのかもしれない。我が苦しみは、このジレンマの痛みであるように思う。


 最近はずっと、あえて思考停止していたので手紙を貰ったのが良い刺激になった。ちょうどそろそろ自省してみようと思っていたところだったので、こうして誰かに向けて何かを書くのは良いリハビリになるだろう。だが、本も最近は読んでいなかったので構文能力が著しく落ちているかも知れない。内容が雑でわかりにくくなってしまった。

まあ、そんなところで。

相変わらず、手紙を読んで浮かんできた書きたいことを書いているだけなので気は遣わぬよう。



「AでもnotAでもなく、その区別自体を避けるという思考法ができない限り、属人的な世界観が終わることはない。これまでもこれからも属人的に責任や功績を帰属する世界観は続いていくだろう。それは、端的にその方が情報処理として容易だからであり、人間は真実よりも楽に生きたい動物だからだ。
SNSを見ていると、楽に処理したいだけなのに大義名分を掲げないと生きられない傾向がみて取れる。行為と理由の乖離は激しい。僕はある時までその乖離にイラついていた。今はそれが人間であると腑に落ちた。人は自身の行為の原因を知ることを恐れ、別の偉そうな理由を偽装する。自身を騙すために。
ほとんど全ての悩みは、結局のところ、他者と自分を騙す説明原理を解除してやれば良いだけのことである。因果的に説明したり、理由を偽装する傾向を外してやれば良いだけである。地に足をつけることが最初にして最後の原理である。それがなんと難しいことかと思う一方で、伝える必要も特にないと思う。
ブッダは悟りを開いた時、この真理は常識と反するもので、語ってもどうせ誰も理解できないから徒労に終わるだけだと考えた。梵天に三度説得され、彼は、常識にあまり洗脳されていない人もいるから、そういう人たちにだけ伝えれば良いと考えるようになった。ここには二つの重要な教訓があるように思う。
「重要なことを知っても、誰かに伝える必要は別にない」ということ
「重要なことは伝えられる人と伝えられない人がいる」ということ
ブッダはすでにこの二つを知っていた。僕もそう思う。」
上妻世海



「(前略)もし、精神病患者が異常なものであるとすれば、精神病院の外の世界というものは奇怪なものであり、精神病的ではないが、犯罪的なものなのである。
 精神病者は自らの動物と闘い破れた敗残者であるかも知れないが、一般人は、自らの動物と闘い争うことを忘れ、恬(てん)として内省なく、動物の上に安住している人々である。
 小林秀雄も言っていたが、ゴッホの方がよほど健全であり、精神病院の外の世界が、よほど奇怪なのではないか、と。これはゴッホ自身の説であるそうだ。僕も亦、そう思う。精神病院の外側の世界は、背徳的、犯罪的であり、奇怪千万である。
 人間はいかにより良く、より正しく生きなければならないものであるか、そういう最も激しい祈念は、精神病院の中にあるようである。もしくは、より良く、より正しく生きようとする人々は精神病的であり、そうでない人々は、精神病的ではないが、犯罪者的なのである。」

「まったくお寺の本堂のような大きなガランドウに、一枚のウスベリも見当たらない。大切な一時間一時間を、ただなんとなく迎へ入れて送りだしてゐる。実の乏しい毎日であり、一生である。土足のままスッとはいりこまれて、そのままズッと出ていかれても、文句のいいやうもない。どこにもくぎりのないのだ。ここにて下駄をぬぐべしといふやうな制札が、まつたくどこにもないのである。」
坂口安吾


「(前略)押し流れている自分を、泳いでいる自分だと計算する、その正確な紋切型の誤算ばかりで組立てられている一種明快で誤差一つない世界の面白さでもあるのである。そこでは無自覚な人間も凡てを意識しているという錯覚の中で暮らすことができる。この錯覚に対しても彼は永遠に無自覚だから、彼が自ら「意識している」と信じている意識は一種純粋な架空な形をとるに至る。それが又しても彼を泳ぐかのように押し流す。」
三島由紀夫



追記
俺はよく、一度書いたものは放置して発酵させてみる。この手紙もそうだ。
最初の方で「ずる賢い人間と元の自分との間を行ったり来たりしているのが現状」などと言ったが、それを書いたときからまたしばらくが経ち状況は変わってきている。今はまた新たな自分になった。いや、よくよく考えれば当然なのだが、自分というものは本来、常に新たな自分なのだろう。変化によって起きた時間は常に加算される。元には戻らない。だがしかし、こうした視点を持つ事が出来るようになった、という点において、以前のある時点の自分と近い姿勢になったのかもしれない。
たとえ変化を経て何かが変わろうが、変化をしていく、という点で実は変わらない。そしてその変化に対する姿勢というものが、その人間を一貫したものにさせるように思う。そしてそれは、隔絶の痛みを知り自覚と自制を持った者だけが可能である事だろう。その先にこそ、選択があるのであり、創造と制作がある。
と、かつての自分であればここで締めても良かったかもしれないが、いかんせん今はまた、少し違う。今は、悪意に触れても変わら(れ)ない、度を過ぎた純真さに期待をかける自分があるのだ。変化は不可逆的であるから、我々は記憶を失うなどしない限りこれはなかなか得難いのだが、性質としてその純真さを持ち続ける者があるとすれば、その者は無限の選択肢という制約を前にした上での創造とはまた異なる次元の創造力を持つ事だろう。
、、、などと思いつきで述べてみたものの、これは、不可逆的な変化によって自分が最早得難いものとなってしまったある種の創造力に対する妬みであるかも知れない。
まあ、結局のところ、自省だのなんだのいったところで、自分の事はよくわからないのだが。
まあ、だとしても考え続けることはやめられないのだが。



これが読まれる頃にはとっくに過ぎてしまっているけれど、誕生日、おめでとう。何を成し遂げようが成し遂げまいが人の生は皆おしなべて並列的で大したことがないものだが、人は想像力を以って対象物に主観的価値を創り出せるものだ。そういう意味で、君の誕生日はあくまで俺にとって多少なりともめでたい。誕生日であることを思い出すとともに俺のようなものにもきっと友人が少なからずいるのだと、生きていく上で少し安心できるから。やはり俺は自己中なのだろう。

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