雑感

例えば、自転車に乗れるようになるには "自転車の乗り方" をマスター≒理解していなければなりません。しかし、自転車を正常に運行させる為には、グリップの持ち方、体の力の入れ方、バランスのとり方、ペダルの踏み方、自転車の形状、地面の形状、はたまた自分の身体の形状、、、と挙げてもキリがない、無数の要素を同時に運用する必要があります。自転車を運転しながらこれらのことを逐一仔細に "理解" するのは不可能なように思えます。がしかし、我々はこれらの事を意識せずとも自転車に乗れているのではないでしょうか。
というのも、我々は "自転車の乗り方" をマスターしているからこそ、却ってそういった要素を知ることができるのです。つまり、あくまでも "自転車の乗り方" をマスターした後で、それを事後的に分析する事ができるということであって、それぞれの無数の分節化した要素は "自転車の乗り方" を我々が知覚や言語によって分解したからこそ我々の前にあらわれてくるものなのではないでしょうか。
同じように、経験やなんとなくの感覚とかいうのも、曖昧であるから真ではないということではなく、それが先立っており、あくまでも言語化やキッパリとした感じの理解は事後的であると思われるのです。そして、先程自転車のたとえで挙げたように、言語化による説明的な理解の試みは、(それこそ要素は無数にあるので)理解しようとする対象を構成する要素を必ず取りこぼしてしまうでしょう。
そもそも、現に我々は自転車の乗り方を非言語的に理解しているという点からもわかるように、我々は言語化の前に既に "経験すること" によって知っているのであるから、物事を理解している、という為に必ずしも言語的説明が不可欠という訳ではないのだと思います。
とはいえ、一応付言しておくと、言語化を否定したい訳ではありません。それは同じような知覚デバイスを持つ人間同士という限定的な状況においてのコミュニケーション上必要となってくるのであって、絶対的な理解の為の手段ではないだろう、ということです。

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