見出し画像

”好き”に根拠は必要なのか?

 こんばんは、ぽぽちです。今日は”好き”という気持ちについて少しお話してみたいと思います。私はたくさん好きなものやことがあって、世間一般で言われる「多趣味」な方に属すると思います。私は芸術・サブカル全般が好きで、映画、アニメ、絵本、漫画、絵画、音楽、ミュージカル、落語、お笑いなどなどなんでも好きです。他にも、私はしたことにないことに挑戦するのが好きで、最近半年以内の新しく始めた活動を説明すると、資格試験の勉強、ボールペン字、ガラスペン、ジムなどがあります。とにかく私はこの世界に、いろんな自分の好きなものやことが溢れていて嬉しい限りです。けれど、私は他人に趣味を聞かれたときに全てを説明している訳ではありません。皆さんもそうだと思います。TPOや説明する相手に合わせて変えているところもあると思います。

 その中で、私が最近考えているのが、「”好き”という感情に根拠は必要なのか?」ということです。なぜそのようなことを考え始めたかというと、私の心の中に、ある一つの方程式が存在することに気づいたからです。それは「好き=他人にその感情を説明できる根拠が必要」という謎の方程式です。

 私がここで使用している「根拠」という言葉の意味は「具体的な数字や経験」のことです。例えば、映画好きを自称するくらいなら○○本観ている、あるいは○○という作品は触れたことがあるといった、相手に納得感の与えることの出来る「根拠」を指します。私は”好き”がありすぎて時に、というよりも普段から自分の”好き”に優先順位を付けているような気がしたのです。別に優先順位を付けること自体は悪くはないとは思うんです。人生、時間は有限で、私たちは時間の使うべき方向をある程度決めておく必要があると私は思っています。あまり興味のない人と会って話すより、興味がある人と会って話す方が良いでしょう。それに、話が少し逸れますが、私は自身が相手に「興味がないな」と思っている時、相手も同じように思っている気がするのです。お互いの時間の無駄にならない為にも不必要なことは避けていいと思います。

”好き”とは何なのでしょうか。時間やお金を費やすことでしょうか。私、今ハッとしました。私が自分の好きなものやことを他人に紹介する時、根拠が必要な気がしていたのは、「好きであることを証明する義務がある」と無意識に思っていたからかもしれません。そのような感情がいつから出てきたのかは定かではありませんが、中高生の頃には既に芽生えていたと思います。覚えているところまで遡ると、ある一つのエピソードを思い出しました。

中学二年生の頃、私はおこづかいを両親からもらっていました。少なくはないが、多くもない額だったと思います。周囲のもらっている基準が少し高かったのは覚えています。プリクラにお金を使うのは割り勘でももったいないと思っていました。母親は昔、お金で苦労したそうで、何かある度に「おこづかいの半分は貯金してね」ということを言っていました。私はその頃、いわゆる二次元のヲタクで、アニメ、特に「黒子のバスケ」が好きで、今考えるとよく分からないお金の使い方をしていました。同じガチャガチャを五回も回したり、何が出るか分からないアクキーの数セットぽんっと購入していたり、表紙で惹かれた漫画を中身も知らずに三巻まで買ってみたりしていました。まあ、中学生のお金の使い方ではなかったと思います。私は、母親にお金の使い方を酷く言われすぎたせいで、考えに考え、遊びにも行かず我慢した後しばらくして衝動的に買うということを何回もしていました。私は自分が欲しくて買ったものを母親に見られたとき、いい顔をされた思い出があまり無いです。記憶は曖昧ですが、「またそんなもの買ってきたの。要らんやろ。何に使うん?」と毎回言われていたのをなんとなく覚えています。
そんなもの。そんなもの。そんなもの?母親は実用的でないものが好きではありませんでした。次第に私は母親に自分の購入品を隠すようになりました。

もう二つ似たエピソードがあります。
先程と同じ中学二年生のころ、自分が面白くて好きだと思ってアニメの「ハイキュー!!」を見ていた時に「こんなん何が面白いん?」と言われたの覚えています。しばらくして、母親が「これ面白いな」と言いながら同じアニメを見ていました。何とも言えない気持ちになったことを覚えています。母親はいつも否定から入る人で、新しいものを快く最初から受け入れるということが出来ない人間でした。

同じ時、私はあるアーティストが好きで、よくその方のつくる音楽を聴いていました。同じアーティストを好きな友人に誘われてライブに行くことになりました。私はライブにどうしても行きたいと思うほど、そのアーティストのことが好きではありませんでした。けれど、私は母親に証明する必要がありました。「私には好きなものやことがあって、そこにお金を使うことも無意味なことではない」ということを。母親は「付き合い」だからという理由でお金を出してくれたことを覚えています。

このエピソードの頃ぐらいから、私は次第に、自分の好きなものやことに対して自信を無くしていくようになりました。「私の”好き”って間違っているんじゃないか」ってそう思うようになりました。自分の感情もだんだんわからなくなって、よくわからない居場所の無さを感じながら生きていました。
けれど、最近やっと自分の感情に向き合うことが出来るようになってきたことと踏まえて、自分の素を見せられる他人の存在(安全基地の確保)もあって本来の自分に戻ってきました。

”好き”に根拠も理由も要らなくて、ただその感情をそのまま受け止めるだけでいいのかもしれません。今の私はそう思っています。純粋な気持ちこそが愛で理由も根拠も無理やり後付けしているだけかもしれないです。否定を恐れないで、自信を持って”好き”って言えるようになりたいです。
「好きなの。」「へーそうなんだ。」

もうそれでいいんじゃないですかね。


この記事が参加している募集

#スキしてみて

524,453件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?