絵本『あたしと友だち』

 絵本『あたしとともだち』(ト書き)

(黄色の背景に小さい女の子が1人立っている)「あたしは小学2年生。絵を書くことが好き。」
(左:ピンクの背景に女の子が絵を描いている 右:ピンクの背景に絵をともだち2人に見せびらかしている。共感する2人の友だち)「このまえ、キラキラした目を描けるようになったんだ。だから、いっぱい女の子の絵を描いて、いろいろな人に見せにいったの。あんちゃんとまこちゃんはかわいいっていってくれたんだけど」
(左:紫の背景に絵をともだち2人に見せびらかしている。文句をつける2人の友だち。右:ひとりで共感する友だちを想像してフフとなる)「わかなちゃんとひろのちゃんには『目が大きすぎ。そんなひといる?おけしょうしてるからでしょ』っていわれちゃった。」「そういえば、あんちゃんとまこちゃんは、いつもかわいい~っていってくれるから、あたしまでうれしくなるな~。」
(左:紫の背景に文句をつけるする2人の友だちを想像して愕然となる。右:「スタイルはいい」「スカート短くしたら」と言われている。修正した絵をもっともっと褒められる)「そういえば、わかなちゃんとひろのちゃんはあたしの好きな歌手はブサイクだとか言ってたな。でも、『スタイルだけはいいけどね』って言ってるし、絵だって、『スカートを短くすればマシなんじゃない?』って言ってた。だから、スカートを短くして書いて、あんちゃんとまこちゃんに見せたら『短い方がギャルって感じだね。前よりいいよ!』って言ってくれたな」
(左:黄色の背景であたしが悩む。右:黄色の背景であたしがひらめく)「ってことは、あたしが、わかなちゃんとひろのちゃんと友だちでいるのは、気づかないことを教えてくれるからで。そういう友だちも必要なんだ。2人がアドバイスくれたから、あんちゃんとまこちゃんは気に入ってくれて、いいね!いいね!って言ってくれたから、あたしはとってもとってもうれしくなった。」
(黄色の背景。まんなかにあたし。左に共感する友だち。右にアドバイスをくれる友だち)「みんなとなかよしでいる必要はないけれど、つながっててもいいのかな。」
(黄色の背景に色えんぴつをもってあたしが立つ)「あたしは、絵を描くことが好き。描いてて楽しいし「いいね!」って言われるとうれしい。すごくたまに、うまく描けないときもあるけど、どうしよう、どうしようって悩んで、できたときの気分はサイコー!。紙と色えんぴつはこれからもずっともち歩くよ。」
(丸くかたどった水色の背景に女の子がこちらをふり返り、手を振りながら遠ざかる)「あ、こんどはおとこの子をイケメンに描きたくなっちゃった!」

絵本のできた背景
 ―やさしさにこう触れながら生活していけたら

 「やさしさにふれたエピソードを教えてください」と言われて、大概、脳裏に浮かぶのは、自分がヒトにしたことやヒトからされてうれしかったエピソードだろう。日本人には、誰かと協力して何かを成し遂げたとき、大きな達成感を得る気質が備わっている。例としては稲作がよく挙げられ、長い時間をかけて、収穫にこぎつけた米を分け合うことで苦労をねぎらってきた。そんな歩みがあるからか、情(なさけ)を重視するヒトが多い。しかし、それはわたしが感じるやさしさと種を異にする。
 私の思う「やさしさにふれた瞬間」とは「QOLが上がった時間」。所詮、自分はじぶんでしかなく、自分以外の何者でもない。相手から見てわたしは他者なのだ。自己のなかには、誰しも、アイデンティティ、信念、生まれながらにもっている気質とかが渦巻いて、おとぎ話の世界を自分でつくり主人公を演じている。そのときのエピソードに合わせていくつものおとぎ話をつくっているヒトもいるだろう。他者に見せることはもちろんないし、説明する機会もない。見えようのない世界だから説明を求められたりもしない。自分がつくったおとぎ話を自分だけで愉しむ心地のよさに他者が分け入ってくるのには強い不快感を覚える。だって、わたしをつくる支柱に何も知らずに土足で踏み込んでくるんだから。それも、知ったかぶりして。
 これほど、こころを蝕まれるような気持ちになるのは、重度の身体障がいにより24時間の介助を必要とする私の身の上が大きく関係する。ほぼ生まれつきで健常だった経験がないので観察によるのだが、他者と接するとき健常者は〈つきあい〉をしている。適当なところで相づちし、適当に受ける。互いに適当で成り立たせていることを無意識のうちに承知しているので、相手がきちんと聞いたり、掘り下げようとすると戸惑う。そのうえ、HSP(Highly Sensitive Person)と自覚しているから言語以外の表情、しぐさ、皮膚感覚といった非コミュニケーションで相手が何を言おうとしているのか想像つく。〈つきあい〉ならばコミュニケーションとしては充分なのだ。そこに言語が加わるともうわかりきっていることを繰り返し言われている感じがして煩わしい。どのような言い方をされると、苦しくなってしまうのか介助者に場面場面で伝えればよいが、助け合いの心しか持っていない彼ら彼女らが理解するのはとても難しいことらしい。
 介助者を配置し、QOLを上げることで、親や家族の負担を減らし、生まれたゆとりで互いに穏やかに生活する。あたりまえに思い描いてきたことさえ実現するのは、とてもとても疲れることだ。雑多に紛れることができるならヒトとつきあいをするだけ。テレビでよく放映されるスクランブル交差点の横断歩道を渡る群集、帰りに路線バスに乗って帰路に着く人々。これから、どういうことをして、どんな気持ちが湧き起こり、どう対処して、どんな気持ちで家に帰るのか。そんなの外からは感じ得ない。ただ、労働者のようにきょうを過ごしている人。周りの人がわたしをそんなふうに見てくれたとき、やさしさに触れたなぁって思ってしまう自分の未熟さがまた卑しい。アイデンティティ、信念、主人公に仕立てることを他者から止められないやさしさは安心となってこころを解きほぐしていく。
 でも、こんなちいさなハードルを越えるハードルさえも見つかっていないくせに、毎日やるべき事をやって、その倍ぐらい好きなことに勤しんで、ヒトから新しいと捉え方を教わり、未来を想像したとき、今までになかった捉え方でやって、失敗したとしても、何とかやっていけそうだと思っていたら、もう視点は拡がっているわけで、そこにヒトのやさしさを強く覚えるのが本来の姿。自分のQOL さえも高い水準で保つことができずに苦しい渦中だが、苦しいまま生を終わるのではなく、何も考えなくてもヒトのやさしさに適当な距離で触れ、ここちよく自然でありたい、上の絵本にはこのような背景がある。

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