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建築よりもアーキテクチャな韓国のネットカフェ事情(読書漂流)


[書評]『ネットカフェの社会学-日本の個別性をアジアから開く-』


久しぶりのnoteだ。最後まで書ききる自信がない。

読者の方はどうか暖かい目でみまもっていただきたい。


■本書を見つけた契機(少し長いが、いつもこんな風に図書館空間を漂っていたいと思っている)

奈良から仙台に来て10ヶ月。東日本大震災関連の授業を履修することなどあり、3.11から考えることが多くある。日曜日にも図書館で『3.11後の建築と社会デザイン』という本を読んでいた。

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その本の中で、山本理顕は、3.11直後の石巻訪問で日本固有の被災の仕方を感じたと話す。そこで、1950年以来の住宅金融公庫法以来の住宅供給システムをさらい、「一住宅=一家族」システムの有効性について疑念を抱く。国民に自発的に努力させてカネを作らせ、自己責任のもとで一つの家族が一つの住宅に住み、国家は一切の責任を追わないという制度のことである。

こうしたやり方は高度成長期には有効だったかもしれないが、住宅購入に加えてメンテナンスや危険負担に対する準備も全て自己責任という方法は、あまりにも生活者に負担なのではないかと語る。

山本理顕...1945年北京生まれの建築家。LDK+nが基本の日本の戦後住宅の流れに対して疑義を呈し、住まいの構造、家族、地域社会といった社会学的な観点から建築の意味を問い続けている。氏の作品は、大学院時代に作成した家族と個人それぞれの場所が外にどう開かれているのかを表すヒョウタン型図などから考え出された独特な空間構成が特徴的で、代表作の一つである熊本県営保田窪集合住宅は個々の住戸が外部に開かれ、その奥に共有の庭があるといった構成で、従来の計画概念に反する尖鋭的なロジックで物議を醸した。

そして現代は国も地方も個人も金を持たない時代になることが予想され、かねてから相互扶助のコミュニティの生み出し方についての議論がされている。(建築はあくまでも人間の生活のプラットフォームであるので、建築のみでコミュニティを発生させることは不可能であるという話は有名である)

それはなんとなくわかるが、それでも集住コミュニティを考える上で、もう少し建築的な発想を広げてみたいと思った。山本は当時、一般的な集合住宅のアプローチがパブリックスペース(公)からコモンスペース(共)、プライバシースペース(個)へアクセスしていく形式だったのに対して、まず個別住戸に入り、そこから公共スペースへとアクセスするという、通常とは真逆の個→共→公のアプローチで集合住宅の空間構成を整えた提案を行っていた。

限られたコスト、床面積の中で、各住戸が中庭や広いテラスを持ち、公営住宅としてはかなり大きな住人専用空間を保有さあせることに成功している。

私が考えてみたいと思ったのは、アプローチの問題ではなく、公・共・個の関係性である。中庭を用途の決まっていない無為の空間、各住戸を生活のための機能の空間と分けた時、その関係性を逆転してみたらどうだろうと思ったのである。つまり、公共空間に生活機能を吐き出して、住戸を無為の空間とするとどうなるのだろうというアイデアである。中庭にベッドを置くのか?洗濯物はどうやって干すのか?など、いろいろな問題点が生じてくる。なかなか扱いが難しそうな話である。

(高橋一平のアパートメントハウスは、空間が共依存し合う設計になっていて興味深い)

ところで、このような生活機能が共同空間に飛び出て、個人の空間を残すという空間構成の建物を何度か私は訪れたことがある。ネットカフェだ。ネットカフェ空間の特徴として、プライベートなブースからコモンスペースまでいくつかのエリアによって構成されており、ウチ(自室)とソトの境界を揺さぶる緩やかなレイヤーによる空間を有している点が挙げられるだろう。

 ここで私の興味はネットカフェ空間に向くことになる。大学図書館にいたので、さっそく検索エンジンに「ネットカフェ」といれて検索してみると、『ネットカフェの社会学-日本の個別性をアジアから開く-』という本がヒットした。先ほどの話を考えるためにも一度寄り道してみたいと思う。以下で、その本をつまみ食いすることにする。

■アジア通貨危機と韓国のネットカフェ繁栄

「日本のネットカフェはなぜ個室なのか」。そうした問いに端を発する本書は、日本と9つの都市(ソウル,北京,上海,天津,香港,台北,シンガポール,マニラ,バンコク)のネットカフェにおいてフィールドワークを行い、2010年前後のインターネット利用やコミュニケーション、場所性などを包括的に研究した博士論文の加筆・修正版である。

社会学の分野ではそれまでネットカフェについて「ネットカフェ難民」のような社会問題の視点から分析するものはあったようだが,ネットカフェにおけるメディア利用を正面から扱った新規性があるだろう。

すでに本書の書評がネットに落ちていたので、その説明はそれに譲るとして(参考文献を参照されたい)、お隣の国、韓国で起こったネットカフェ爆増のメカニズムに焦点を当ててみたい。

日本のネットカフェが「人に迷惑をかけない」と言う暗黙の了解のもと、決定的に静かな空間において書物の代わりに漫画が置かれた図書館のような様相をしているが勉強などはかどりそうに思えるが、

韓国のネットカフェはまるで様相が違う。韓国のネットカフェは1人で孤独を満喫するための場所ではなく、大勢の友達と一緒にゲームをしに来るところだと言うのである。

韓国のネットカフェの数は日本の6倍に上り、利用者の人数の割合は、ソウルの中高生を対象にしたアンケートによると、1人で来るものが0.3%だそうだ。

韓国人たちはネットカフェで何をしているのだろうか。彼らはパソコンをしながらお互いに声を掛け合い、グループチャットもして話すのである。日本のネットカフェに比べると韓国のネットカフェは非常に賑やかなのであろう。


韓国のネットカフェはある時期に爆増した。


1998年アジア通貨危機が起こった。韓国では失業者が溢れ、韓国人たちはチキンの配達か、ネットカフェで働くといった少ない選択肢の中で生活を余儀なくされた。前者はわかるが、後者は少し謎だ。

このことには通貨危機を受けて韓国が旧来の財閥依存による経済体制からベンチャー企業化を図ったという背景がある。

ベンチャー企業は、オンライン化によるビジネスを始めた。その中でもHabit Soft社のゲーム開発が韓国におけるネットカフェブームを起こす。同社は開発したゲームを韓国中のネットカフェに無料配布し、これにより韓国ではネットカフェ利用者が急激に増えたのである。利用者の中にはゲームで賭けなどを行い、競い合うものも多く現れ、さらにはゲームには実力が必要なだけでなく、運が勝敗を分ける要素まで盛り込まれており、ネットカフェ文化は盛り上がった。

(たとえば高低差のある地形で戦闘するときには、高い方がしばしば有利になるといったように想像すれば良いだろうか)


それから自宅でも利用可能なゲーム用パソコンが普及し始め、それに伴って新しいゲームが次々に開発されていった。しかし、新しいゲームが開発されるたびにさらにハイスペックのパソコンを買う必要があり、自宅でパソコンを更新し続けるのは困難であった。

ネットカフェでは常に最新型のコンピューターが完備されることになっていたのでネットカフェの需要は依然として釣り上がっていった。その後自宅用パソコンの性能がさらに上がり、ネットカフェパソコン自体への需要は下がり始めることになる。サービスや付属品等で付加価値をつけるようになるが、現在は需要が下げる傾向にある。しかし、このような仕組みを生み出したゲームの開発者は建築家よりもアーキテクトであったと言って良いのではないか。


以上、漂流読書でした。なんとか建築っぽい話に落ち着けられただろうか。


参考文献:

『ネットカフェの社会学 ― 日本の個別性をアジアから開く― 』平田知久,慶應義塾大学出版会,2019

書評「『ネットカフェの社会学 ― 日本の個別性をアジアから開く― 』」松下慶太https://www.jstage.jst.go.jp/article/ajiakeizai/61/2/61_82/_pdf/-char/ja

『3.11後の建築と社会デザイン』藤村龍至、三浦展編,平凡社,2011

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