見出し画像

#3 the monogatary | 渋谷事変

前回はこちら▼

それは一瞬のようで。それは永遠のようで。そんな時間を僕は過ごした。

某日。蝉の鳴き声が聞こえる季節。僕はいつも通り渋谷に向かう。大好きな祖父母に会うため。最近オセロを始めた祖父母は、僕も一緒にやらないかとよく誘ってくる。本気でやると勝ってしまうので、手加減することが大切だ。そうでないと、祖父母のご機嫌を取ることができない。

昔の記憶を呼び起こす。幼少期にオーストラリアに住んでいた自分は、チェス部に所属していた。日本ではチェスより将棋のほうが知名度があるように感じる。しかしながらチェスも将棋も、どちらの競技にも独特なルールがあり、ゆえに面白い。チェスではそれなりの地位を得ることが出来たが、全国の猛者に叶うほどの技量を習得する前に、帰国した。受験勉強との兼ね合いもあって、チェスにはそこまで熱中できなかったが、また機会があれば祖父母とでもチェスをしたいと思っている。

辺りが騒がしい。いつも通り歩道橋に乗って祖父母の自宅まで向かう。どうやら何かしらの事故があったようだ。交通規制がされている。クラクションが飛び交う。しかしそんな状況に対して見ぬふりをする通行人。スマホが普及するようになって、僕たち通行人の関心は携帯にばかり集まるようになった。世の中が発展し、個の力が伸びていくことは素晴らしいことである。しかしながらその代償として、僕たち人間の繋がりは希薄なものになっているように感じる。ネット上の友達はたくさんいるかもしれない。でもリアルの友達は?挨拶は?良き伝統が失われていく。それを気にする人もいれば、気にしない人もいる。「何か寂しいなぁ~。」そう独り言を呟く。結局、僕たち人間は時の流れに身を任せるしかないのだ。

歩道橋を降りる。この歩道橋もいつか老朽化して、新しくなるのだろう。その日を楽しみに待つとしよう。ひとまず、目的地へ向かう。ここから少しばかり歩いたところに、祖父母の家がある。渋谷はその名前が示す通り、様々な地点に坂道が存在する。それは今回も同様で、この暑い気温の中、僕はエネルギーを振り絞る。そんなに汗をかく方ではないが、どうやら今日は例外らしい。汗が滴る。それをタオルで拭う。ハンカチ王子が引退した。彼の野球人生は、どのようなものだったのだろう。高校時代に衝撃的な試合の数々をこなし、早実を優勝に導いたエース。大学時代も無双した彼は、ドラフト1位で日本ハムへ入団することになる。しかしながら怪我の影響もあって、プロ野球選手として長く活躍することは出来なかった。もしマー君のように、高校を卒業してすぐにプロの世界に飛び込んでいたのなら。そんなたらればについて考える。引退試合は四球。決して派手な投球ではなかった。登板後、栗山監督が声をかける。涙する斎藤選手。これが全てではないのだろうか。ネットでは罵詈雑言を浴びていた。しかし引退が決まるとなると、ねぎらいの言葉でネットは溢れる。きっと彼にしか、そして彼の周りにしか分からない苦しみがあったように思う。それでもよくめげずに頑張ったと僕は思う。彼の努力は報われなかったのかもしれない。でもそれは野球に限った話である。第2の人生を歩む上で、その経験はかけがえのないものとなる。少なくとも、僕はそう信じている。

段々と目的地に近づいてきた。南平台は渋谷の中でも変わった場所であるように思う。渋谷といえばスクランブル交差点を思い浮かべる人が多いだろう。しかしながら南平台の雰囲気は少々異なる。静か。その言葉がよく似合う町である。道路は丁寧に舗装されており、どこか広さを感じ取ることができる。そんな町なのだ。渋谷と聞くとうるさいイメージや、外国人で溢れている印象があるかもしれない。でも探索すると、意外と違った特徴を感じ取ることが出来るのかもしれない。

エントランスに入る。最新のセキュリティが施されたこの家であれば、祖父母も安心して暮らすことができるだろう。部屋番号の入力し、チャイムを押す。洗練された空間にチャイムの音が響く。暫しの静寂。

祖母:「はい。」

衛宮:「衛宮です。」

たったこれだけのやり取り。それだけで、玄関の扉が開く。声というものは実に多くの情報を含んでいるものだと感心する。きらびやかなエントランスを抜け、エレベーターへ。3階というボタンを押し、気を静める。学生時代、坐禅を経験したことがある。鎌倉まで出向き、まずは色々とガイドの方が鎌倉について説明をする。そしてしばらくして、坐禅を享受してくださる方のもとへと出向く。各自座布団を下に敷き、準備に入る。坐禅において大切な要素は幾つかあるが、その中でも姿勢は特に重要である。決まったポーズを長い時間に渡って維持し続け、そしてその際に行う呼吸に意識を傾ける。これが坐禅の基本である。冒頭でも触れたが、様々な情報に溢れている現代において、心をリラックスする時間を取ることは困難を極める。ゆえに坐禅などの機会は貴重なものだと認識する。無の境地。そんな悟りを僕も開きたいものだ。

目的地に着く。ドアを開けて入室すると、いつも通り、祖父母の声が聞こえる。

祖父:「いらっしゃい。」

衛宮:「ども。今日は暑いね。」

祖母:「いらっしゃい。すいかでも食べる?」

衛宮:「そうだね。是非。」