そば菊

 昔から、庶民の楽しみってのは、「呑む打つ買う」つって、夜だけやってりゃまだマシな方なんだが。昼までやり始めちまう、しまいにゃ、着物や商売道具なんかも質に入れてもまだ足りねえ、なんて、どうしようもねえのがいまして。困っちまうのは、それを支えるかみさん。
 蕎麦打ちの勝五郎また、腕はいいが、どうしようもねえ。蕎麦屋を持つのが夢だなんて言ってはいるが、夜も昼もの道楽者。そんな旦那を細く長くと支える奥さんがおりました。

 
 


「ねぇ、あんた。あんた、早く起きてくれよ。お天道様がもうこんなに高くなってるよ。」
「ん、んぁ。」「だめだよ。ほら起きて、仕事しておくれ。」
「いて、痛えな。んん、や、気持ち悪いな。まだ昨日の酒がのこってら、もう少し寝かせてくれ」
「そんなこと言って、もう何日もお店閉めちまってるじゃないかい。蕎麦うってたら、酒も抜けるよ。起きなよあんた。」
「んんわーった、わーた。起きるよ。うっせえな。」
「ほら、お茶もご飯も用意してるからさ。今日は店開けておくれ。」
「店開けるったって、つゆもねえし、水もねえじゃねえか。」
「つゆはちゃんと昨日のうちにとったよ。水もご近所さんに頼み込んで、分けてもらってるから。」
「んそうか。」 ずず。ずず。
「ところであんた、包丁はどうしたんだい?今朝探したけど、どこにも見当たらないんだよ。」
「ず。ん。あれは、質だ。」
「質って、あんた蕎麦切るのにどうすんのさ」
「まぁなんとかならあ。」
「なんとかって。あんたねえ。そういえば、のし棒も見当たらなかったよ。」
「ああ。あれは、ヤスにやってる。」
「やすって。質屋のやすさんかい。あんなんやってどうすんのさ。」
「物干しにでも使えるだろって、利子の足しにしてもらってら。」
「そんなんこれっぽっちにもなりゃしないでしょう。はぁ。困ったねえ。」
「まぁなんとかならぁな。ずず。あぁ。そうだ、おい、風呂桶持ってきてくれ。」
「風呂桶?桶なんてあんた持ってってどうすんのさ。まさか、風呂でも行くなんて言うんじゃないでしょうねえ。」
「こんな真っ昼間から風呂なんて浴びねえよぉ。鉢の代わりだ。」
「鉢の代わりって。鉢も質に入れたんですか。」
「ああ。まぁ、なんとかならぁ。」
 
 勝五郎は板場に着き、ヘンテコな道具で蕎麦を打ち終えると、意気揚々と家をでていきました。
「じゃ、行ってくるぜ。」
打ちたての蕎麦と、つゆ、酒瓶をもって。
  
 表通りに屋台を引いていくと、さっそく常連さんがやってきます。
「おう勝五郎、やってるかい。」「お、大将。いらっしゃい。なんにしやす。」
「もりでくれや。」「はいよ。」 
 蕎麦を湯に入れると、湯呑みを一口。ざるにあげて、蕎麦を水で冷やしながら、また一口。 
「最近えれえ休んでたなあ。どうしてたんだい。」
「へぇ、まぁいろいろと。へい、おまちどう。」
「おう。早いねえ、さすが勝五郎だ。あんがとよ。まあ元気そうならいいけどよ。商売になんねえだろう。」
「へえそうですねえ」
「かみさんにあんま苦労かけんじゃねえぞ。あんな別嬪さん女房にしてよお。まぁいいや。うめぇ蕎麦がにげちまう。頂こうかね。。うわ、おいなんだいこりゃ」
「へい蕎麦です。」
「いや、そりゃ蕎麦頼んだけどよ。こりゃ、また、へんてこりんな蕎麦だな。太さも形もバラバラで。」
「そうですかねえ。」ぐび。
「それに、なんか、ちょっと匂うぞ」
「あっしですか?」
「いや、おめえじゃねえや。おめえも少し匂うけど。蕎麦がだよ。どうも木みてえな匂いがしてきやがる」
「ああ。香り蕎麦でさあ。檜仕込みですぜ。」
「ん。そうなのか。んまあ、つゆはいつものやつだし。勝五郎が言うならなぁ」
 ずず。ず。
「ぺっ。こりゃなんだ」
「へい、蕎麦です」
「馬鹿言ってんじゃねえ。こんなん蕎麦じゃねえ。コシもそばの香りもあったもんじゃねえや。はっきり言ってまずいぞ」
「そうですかい。いつもと変わんないんじゃあ」ぐび。
「ばか言ってんじゃねえ。こんなまずい蕎麦。ぺっ。お前どうかしちまったんじゃあ、ん、おい、おめえなんか顔が赤くねえか」
「へ、そうですかい。少し西日が差してきましたかね。」グビ。
「西日ってまだ八つくれえじゃねえか。おい、おめ臭えな。その湯呑みで何飲んでやがる。」
「へい、蕎麦です」
「ぐびぐび蕎麦飲むやつあるか。貸してみろ。あ、おめえ酒飲んでやがんのか。こんな時間から、馬鹿野郎。ったく。もうけえるぞ。」
「へい有難うございます。十六文になります。」
「金なんか払えるか。け。」「へい有難うございます。」……ぐび。
 
 こんな調子で、贔屓にしていてくれたお客さんも離れ、蕎麦が売れない腹いせに、博打に行き、負けた腹いせに酒を飲み。帰るのはいつもベロベロで陽が上がってから。
 「勝さんもう帰んなよ。明日の仕事だろ。おくさんも心配してんぜ。」
「うるせいや。明日も休みだ。」
「そんなこと言って、つけ払ってくんないとうちも困るよ。」
「大丈夫だ、なんとかならあな。」
「なんとかって。こう言っちゃなんだが、最近勝さんの蕎麦評判悪いぜ。そんなんで大丈夫かい。」
「余計なお世話でい。俺のそばが不味いんなら、食わなきゃいいじゃねえか。つゆはうまいが、そばが駄目だ、なんて、かぁー腹が立つ。知った口聞きやがって、この野郎。おうもう一杯くれや」
「勝さん。もうあんたにやる酒はないよ。飲むならけえってやってくれ。」
「け、しけてやがんな。わーったけえるよ。」
「勝さん待ってくれ、勘定。」「おう、ツケにしてくれ。」
「もう面倒見きれねえな。勝さん」

 徐々に、勝五郎が飲みいけるところはなくなり。昼から家で飲んでは寝て、起きては飲み。そばも打たなくなりました。
 

「ねぇ、あんた。あんた、起きてくれよ。」
「ん、んぁ。」「だめだよ。ほら起きて、いい加減にしとくれよ。いつまでそうやってるつもりだい。もう半月もそば売ってないじゃないかい。」
「いて、痛えな。いいんだよ。蕎麦なんてもうやめたんだ。」
「やめたって、馬鹿あんたまだ寝ぼけたこと言ってんのかい。これからどうして暮らすつもりだよ。」
「まあなんとかならあ。それより、酒もってこい、いい夢見てたのによお」
「酒なんてもうこれっぽっちもないよ。何から何まで酒代にしちまって、うちん中もうすっからかんだよ。だいたいねえ。道具なんて質にしちまうから、こんなことになってんだろう。」
「うるせいや。そんなこと言ったってしょうがねえじゃねえか。ねえもんはねえ。不味いもんは不味いんでいこんにゃろっ。お、なんだこんなとこに隠してんじゃねえか。ったく、一人で楽しもうったってそうはいかねえぞ。」
「馬鹿あんた駄目だよ。それは大事にとっといた、返しに使う酒なんだから。よしとくれよ。それを飲んだらもうつゆが作れなくなっちまうよ。駄目だって」
「うるせい。蕎麦はやめたんだ。こんなもん飲んじまえよ。ん。ん。かあー。寝起きの酒は美味えなぁ」
「ああ。もうほんと……。あんたには愛想が尽きたよ。もうあたしゃ出ていくからね。蕎麦を打つあんたに惚れちゃいたが、昼間っから夢見てばかりの、こんなろくでなしは、もう知らないよ。」
「そうかい、おめえもそういう態度とんだなぁ。ああもう、どこへでも行きやがれ馬鹿野郎。おめえなんて知らねえ。どこぞの男んとこにでもいっちまいやがれ。」
「まああんた……。もうとことんだね。さよなら。」
 バタン。

「ちび。け、ほんとに出ていきやがったぜ。あの馬鹿野郎。ろくに荷物も持たねえでよ。あぁー。なんだか家がスッキリした気分だぜ。っけ。また夢の続きでもみっかな。」


 んん。あぁ。朝になっちまったか。ち、野郎なんで起こしやがらねえんだ。おい、酒だー。酒ーもってこい。
 
 ん。おかしいな。おーい。
 
 ち、どっかいきやがったあの野郎。さては、朝っぱらから湯でも浴びに行ってんのか。贅沢なもんだねえ。いっちょ俺も朝風呂ぉ。って金がねえや。
 あいつまたどっかに溜め込んでやがんじゃねえか。

 だいたい相場は。。
 あれ、棚も何もねえや。あんな大きなもんどうしたってんだ。まあいいか。
 さては、台所か。
 
 っち、なんだよ、つゆ仕込んでんじゃねえか、あの野郎。ここにもなんもねえ。

 あと、探してねえのは、板場くれえか。

 お、なんだこりゃ。包丁に、のし棒に、鉢まで、なんで帰ってきやがった。
 まぁーご丁寧に磨きやがってよお。蕎麦やんねえっつったのによ。まぁいいや。また質にして飲むか。
 それより、湯代だ。どこにあっかな。

 っかしーな。戸棚にもどこにもねえじゃねえか。っち、あいつ俺が探すとふんで、持ち歩いてやがんだな。たくしょうがねえな。
 ああしっかし、腹減ったぜ。酒もねえし。もうしばらく待つか。

 にしても全然帰ってこねえじゃねえかあの野郎。ちっ。腹減ってしょうがねえな。台所にもなんもなかったし。
 ったく、なんか用意してから行けってんだ。
 ああしょうがねえ、つゆももったいねえし、蕎麦でもうつか。

 
 しっかし、粉も古くなってんじゃ、、ってあんじゃねえかよ。金がよう。あの野郎、粉んとこに隠しやがって。考えたもんだぜ。こんなに溜め込みやがって。
 さてと、風呂—
の前に、とりあえず、飯だな。飯。

 板場につき蕎麦を打ち始める勝五郎。
 
 よいしょ。
 綺麗な道具だと気持ちが入るねえ。いい仕事すんじゃねえかあいつも。
 ん、と、よっと。あら、んーおかしいね。どうもしっくりこねえなちくしょう。
 ほっとっよ。粉が悪いな。つなぎがイマイチだ
 
 時間をかけて打った蕎麦は、太かったり、細かったり、長かったり、短かったり。
 
 んん。まあ食えねえことはねえだろ。っし、食うか。
 パラパラ…ザッザッ、バシャ、バシャ、ザッザ。ザルの上の異様な蕎麦を、つゆにつけ。

 ずず…ん。なんだいこりゃ。
 ボソボソして、コシも喉越しもあったもんじゃねえ。
 途中で切れちまいやがるし。おらぁ何作ったんだ。こんなん蕎麦じゃねえぜ。

 もういっちょ打つか……
 
 何度か打つうちに、先ほどよりはしっかりした形のものができましたが、

 ずず…んー。食えるようにはなったが、、
 いや、俺の蕎麦はこんなもんじゃねえ。もう一回だ。
 
 ちっ、なんだい粉がねえや。
 あー、やめだやめだ。俺はもう商売人じゃねえんだ……。
 さて、酒でも、買ってくっかな。

まちに出ると陽はもうすっかり暮れており、通りは大賑わい至る所から、出汁の美味しそうな匂いがしてきました。

 ああこう美味そうな匂い嗅いでっと、なんだかな。蕎麦食った気がしねえな。
 ちっと、大将んとこ寄ってみっか。
 

「ごめんくだせい」
「んなんだ。勝五郎じゃねえか。おめえがなんのようだい。蕎麦屋は辞めたらしいじゃねえか。」
「そうなんですがねえ。」「ようがねえならけえってくんな。こっちは、年の暮れで忙しいんだ。ここは粉屋だ。飲みになら他いけや。」
「いや、ちょっと。粉をいただきたくて。」「粉だ?なんに使うんだよ。うちの粉使ってあんないい加減なな蕎麦打ちやがって。おめえんとこだからくれてやってたのに、だめにしちまいやがってよ。こっちも商売あがったりだ。けえれ。おめえにやる粉はねえよ。」
「いや、おっしゃることはごもっともなんですが、その……大将の粉でそば打ちたいんです。捨てるやつでいんで、少し分けてくれねえですか。」
「馬鹿言ってんじゃねえ。クズ粉でも、うちのはやりゃしねえよ。けえれ。」
「お願いします。もっかいちゃんとした蕎麦打ちたいんです。」「だめだ。けえりやがれ。」


 っち、なんだい強情な奴め、ちくしょう。くそっ。

 不貞腐れて歩いていると、いつもの飲み屋が見えてきましたが、どこの店も勝五郎の顔を見ると扉を閉めてしまいます。

 っちどいつもこいつもよう。

 おうけえったぞ。おい。まだ帰りやがらねえ。ったく、どいつもこいつもよう。はあ……
 もう寝るか。
 

ドンドンドン。ドンドンドン。
 
 んん。うるせえな。おい客だ。おい。
 ああ。まだけえりやがらねえ。
 ったく。

 扉の外には、荷物を抱えた小男が。
「勝五郎さんですかい。粉屋の大将からです。」
「大将。大将がなんのようでい。」「はあ荷物預かっただけなんで」
「そうか。なんだろうな。嫌がらせに、クソでも送ってきやがったか」
「はあ。なんでしょうね。匂いやしませんが。まあ上等なもんじゃねえとは言ってましたが。」
「そうか。あーそこおいてくれ。」「へい、おいしょと。じゃ確かに。」
「おうあんがとよ。」
小男はすぐに出ていくと、物凄いスピードで台車を引いてどこかに行ってしまいました。

 忙しないやつだな。。
 さて、相当俺も嫌われちまったからな。あんやろう、何寄越してきやがったんだ。

 袋を開けると、たちまち煙が巻き起こり、視界が真っ白になりました。

 ぺっぺ。なんだこりゃ、煙いな。あぁん…こりゃ、蕎麦粉か。
 しかも、、結構いいじゃねえか。どうしてまた……
 あんなこと言ってたのに……
 
 へへ、ありがてえや。


 勝五郎は、ふたたび板場に立ち、蕎麦を打ち始めました。
以前とは打って変わって、一言も発さず、黙々と蕎麦を作っていきます。
粉を混ぜ、水合わせ、粉の状態を指先に感じながら、水を調整し、そこからよく練ります。
のしの工程に入っても、止まることなく、丁寧に生地を均等にのしていきます。
生地を畳み、こ気味良い音を立てながら、蕎麦を切っていきます。たんたんたん。
音が止むと、勝五郎は満足げに顔をあげ、早速、鍋に湯を沸かし始めました。
湯が沸くと、さっと蕎麦を茹で、水でしっかりしめ、水を切ったそばをせいろに乗せ、
「これだよな。」勝五郎はつぶやいた。

 表通りに出ると、たくさんの屋台がもう並んでおり、かつての売り場も他の蕎麦屋がおりました。
まあ仕方ねえか。
 通りの端、奥張った場所に、屋台を構えると、湯を沸かし、お客を待ちました。
一刻すぎ、二刻過ぎても勝五郎の店によるものはいませんでした。昼時を過ぎて、屋台もちらほらと閉まっていき、人通りもまばらになった頃、ふらふらと通りを歩く人がいました。
蕎麦の屋台に声をかけては断られ、罵声を浴びせては、断られ。
こんな昼間っから何してんだか。
こちらへやってきて赤ら顔の男は言いました。「おう蕎麦屋。いっちょ、くれや。」
「旦那もう酔ってんですかい。」「うるせい、おりゃせっかちなんだ。出すのか出さねえのか。はっきりしやがれ。」
「へい、おまちどう。」「ん、おおう、はええな。これだよ。俺は蕎麦食いたいだけだってのに。いただくぜ。」
 ずず。ん。ずずず。おう。ずずーず。こりゃ。ずずー。……
あっというまに食べ終わると、蕎麦湯を一気に飲み干し、男は立ち上がりました。懐からー円を卓におくと
「おう、美味かったぜ、ちとつゆが辛えがとかく蕎麦がうめえ。」「へい、ありがとうございやす。」
「あんた、いつもここにいんのかい。」「いや今日はたまたまです。」
「そうか、まあ、また食わしてくれな。あんがとよ。」男はそそくさと行きますが、
卓上のお金をみた勝五郎は驚いて、男に声をかけます。
「旦那さん、旦那さん待っとくれ、こんないただけねいや、うちは十六文です。」
驚いた顔で男は少し振り向くと、笑みを浮かべながらこう言います「ああ、いいんだ。うめえから、それに見合った金を払っただけよ。まあ、器でもなんでも買ってくれや。ほんじゃあな。」
男はそのまままっすぐ行ってしまいました。「有難うございます。」
 しばらくの間、勝五郎は頭を上げることができませんでした。

 勝五郎は酒屋へ寄って、長家へ帰るりました。
 そして、台所に立ちつゆを仕込みました。仕込み終えて、すぐにとこに着きまう。
明くる日。また明くる日も、勝五郎は、蕎麦を打ちました。納得いく出来にならなければ、それを自分で食べ、また打ちました。
 勝五郎は、同じ場所に屋台を構え続けました。先の御仁は現れませんでしたが、徐々にお客も増え始めました。徐々に、常連のお客様も帰ってき始めました。

「おう、やってるかい。」「へい、少々おまちくだせい。すぐにここかたすんで。」
「なんだ盛況じゃねえか、勝五郎。」「お、親方。あ、すいやせん。すぐに」
「ああおめえの蕎麦が食いたくてきたんだ。待つぜ。」「へい、ありがとうございやす。どうぞ」
「おう。もりだ。」「へい」 パラパラ…ザッザッ、バシャ、バシャ、ザッザ。
「おまちどうさまでごぜいやす。」「おう。いいね。これだ。いただくぜ。」
 ずず。ん。ずずず。おう。んん。ずずーず。こりゃ。ずずー。
「つゆ変えたんか。」「へ、へい。」「そうか。ずずー。まあこれもまた。うめえな。」
「へい。ありがとうごぜいやす。」
 ずずーず。。
「おう蕎麦湯くれるか。」「へい」
「んん。ああ、美味えな、やっぱり。おめえ腕上げたな。」「ほんとですか」
「嘘なんかつくかよう。まあ、つゆは前の方が俺は好きだがな。確かに上手くなってるよ。
やれば、できんじゃねえか。勝。」「ありがてえございます。」
「おうそろそろ、粉ねえんじゃねえか。また持ってきてやるから、しっかり売れよ。」
「へい、ありがとうございます。それで、あの、前回の粉の分も、お代がまだ」
「ああ、ありゃいいんだよ。こうしてまた勝吾郎の蕎麦が食えたんだ。ごっそさん。ほら、十六もん。」
「いや、いただけません。」「なんだ足りないってか。しょうがねえな。ちょっと待てよ。」
「いえいえ、親方からお代いただくなんてそんな。」「何言ってんだ、美味えもんに金払うのは当然だろうが。美味かったぜ。またな勝。」
「へい、有難うございました。」

「お、勝さん、機嫌よさそうじゃねえか。最近景気いいんだって。どうだい、ひさびさに一杯。よっていきなよ。話もあるしー」
「おう、じろう、悪りいな。明日の仕込みがあってよ。今日はすぐけえんなきゃなんだ。またよるぜ」
「お、おうそっか、頑張ってな。」「おうありがとよ。」
 
 勝五郎は家に帰ると、またつゆをとり、蕎麦をうちました。

 夏をこえる頃には、店に行列ができるようになり、打った蕎麦が売り切れるようになりました。
 その年の暮れには、家にツケをとりにくる行列も見なくなりました。

「おう勝さん、めっきり店に顔出さねえが、どっか悪いんかい。」
「いやそんなことねえぜ。この通り忙しくてよ。」
「そうか。まあ無理すんなよ。ちょっと疲れてんじゃねえか。酒でも。」
「いや、大丈夫だ。毎日蕎麦食って逆にピンピンしてら。」「そうか、ごっそさん。またくるぜ。」
「おう、有難うございました。」

 また夏を超える頃、勝五郎は、少しばかりお金を借りて、表通りに「蕎麦 菊」というお店を構えるまでになり、人を雇い、店でつまみも少しずつ出していくようになりました。
 勝五郎に教えを乞いたいというものが現れると、道具の手入れから、技術の端まで、それは熱心に教えたそうです。
 店は大盛況。朝早く起きては、蕎麦を打ち、店に立っては、蕎麦を打ち、夜遅くに帰っては、つゆをとり。
 そうこうしているうちに、年の暮れになりました。大晦日には、遠方からわざわざ勝五郎の蕎麦を食べに訪れる者もあり、朝から晩遅くまで、人が途切れることはありませんでした。

「勝さん大丈夫ですか。」「おう、何がだ、蕎麦か。」
「いえ、お疲れかなと思いまして。」
「馬鹿野郎、何を一丁前に人の心配してやがる。蕎麦が大丈夫なら、大丈夫だ。こんだけお客さんが来てれてんだ。ありだてえじゃねえか、なあ。—あんがとよ。」「え」
「何ぼさっとしてやがんだ。手ェ動かせ。蕎麦茹でろ。」「へい。」
お客さんもまばらになってきた頃。勝五郎は、弟子たちに封筒を渡しました。
「勝さんこれは。」「なんだ野暮なこと聞くんじゃねえや。持ってけ。大事に使えよ」
「へい。有難うございます。来る年もよろしくお願いします。」「おう。よろしくな。」
 その後勝五郎は一人で、切り盛りし、自分用にと蕎麦を2つ残して、店を閉めました。
  ふっと緊張の糸が切れたのか、勝五郎は板場で突っ伏してしまいます。
 
 半こくほど立った頃一人の男が店に入ってきました。
「ごめんくだせえ。まだやってるかい。ごめんくだせい」
板場から顔を上げると、入り口に、見た顔の男が立っていました。
「お、兄さん、こっちでやってたんだな。探しちまったよ。今年の暮れにはどうしても、兄さんの蕎麦が食いたくてなあ。」
「ああ、いつぞやの。そうでしたか。ありがとうございます。まま、どうぞ、火落としちまってたんで、ちと時間はかかりやすが。」
「構わないぜ。いくらでも待つよ。」「へい、有難うございやす。」
「ところで、今日は、ひとりなのかい。」「いえ、もう弟子どもは、帰らせたんで」
「そうかい。いやしかし盛況だそうだねえ。ありゃ美味えもんな」
「いえ誠におかげさんで。旦那のおかげです。」
「そうか、そりゃ嬉しいね。食った甲斐があるってもんだ。ハハ。」
「ぜひ、旦那にもう一度食べてもらいてえと思って。」
「おお楽しみだね。もうすぐかい。」「へい、今茹でやすよ。」
「じゃあ、モリで。」
  
 パラパラ……ザッザッ、バシャ、バシャ、バシャ、ザッザ。
「お待たせしやした。」「あんがとよ。」
ずず。ん。ずずず。おう。ずずーず。こりゃ。ずずー。……

「美味えなあ。やっぱり。つゆもかどがなくて、いい塩梅だ。こりゃ、店も立つわな。」
「有難うございます。それも、これも旦那のおかげです。」
「そうかい。嬉しいねえ。蕎麦湯くれるかい。」「へい」

「ああ美味かった。来たかいがあったぜ。ああ。なぁ兄さん蕎麦、もう一つ頼めるかい。どうしても食わせてえやつがあるんだ。。」
「え、蕎麦ですか、いやー。まあ旦那が言う人になら。」
「そうかい、悪いな。すぐ呼んでくっからよ。あ、そいつの分も先に置いとくぜ。」
「いえいえ、またこんなに。いやお代は結構ですよ。待たせちまってるし、それに、これは俺が自分で食うようにとっておいたやつなんで。」
「ん。いや、貰ってくれ、なんか買ってやんな。そいじゃな。」
「あ、ちょっと。旦那。」男はそそくさと出て行きました。

残された勝五郎は、この一年に思いを馳せ、充足感とどこか寂しさをただぼんやりと、
年が暮れていくのを感じていた。
 
 ガタ、ガタン。

「ん。へい。いらっしゃい。」「ごめんください。あの、七衛門さんから」
「七右衛門、ああさっきの旦那だね、聞いてやすよ。ちょっと適当に座っていてくれやすかい」
「はい。」がたた。
「もりでいいですかい。それともあったけえの……おめぇ。あ、ちょ」
「いえ、もりでお願いします。」「な、な、なに、何してんだおめ、こんなとこで。俺がどんだ」
「もりでお願いします。」「お、お、へい。少々」
  
  パラパラ……ザッザッ、バシャ、バシャ、バシャ、ザッザ。
「お待たせしやした。」「ありがとうございます。」
ずず。ん。ずずず。すん。ずずーず。すん。ずずー。
…………美味しい。
 だろ、だろ、そうだろう。おめえがうちけえって来ねえから、おれは、おれは、蕎麦しかなくて、そいで、おめえよ。
 ……
 だからよお。必死こいて、夢だった自分の店までこさえてよ。表通りにだぜ。
 ……はい。
 だからよお。弟子も何人かいてよお。
 ……
 なあ、おい。きくぅ。
 ……
 おめえさんは元気してたか。
 …はい。
 そうか。それならいいや
……
……
…あたし知ってたの。
…ん。ああ店のことか、おう、今や有名店よ。街の外からも人がくんだぜ。
…ええ。それも全部。聞いてたから。
聞いてたって、誰に聞いてたんでい。
みんなよ。@屋の大将にも、やすさんにも、飲み屋のみんなにも。
な、あんにゃろうめ、俺には何も話さねえで。
……あたしが黙っててって言ったの。みんな協力してくれて。大将なんか、あんなに怒ってたのに、最後には勝吾郎のためだって。
そうだったか……あの、あの、七の旦那ってのは、なんなんだい。
……七右衛門さんは、面倒見てくれていた方よ。
な、じゃあおめえ、俺はおめえの今の旦那にへこへことまあ頭垂れちまって、ったくよ。
 違うの。七右衛門さんは、いい人だけど、そう言う人じゃないよ。わたしの話を聞いて、返せるあてもないのに、お金も貸してくださって。そのおかげで、あなたは、蕎麦も打てているんだよ。
そうだったんか。いや頭が上がらねえな。

……蕎麦、美味しかったよ。またうまくなっちまって。あたしも嬉しいよ。
……おうありがとな。よう、蕎麦湯、飲んでけよ。
いいよお。なんかねえ……少し辛いんだこれ。
ば、ばかゆうなおめえ。そりゃ
ゴーン。ゴーン。
おめえがつくってねえからじゃねえか。
ゴーン。ゴーン。
ほら、飲めよ。あったまんぞ。
ゴーン。ゴーン。すん。
ほら、しょっぱいじゃないかい。すん。
そうか。
しょっぱいねえ。
ああ。また、俺の蕎麦ぁ食ってくんねえか。菊。
ゴーン。ゴーン。
ええ。
ゴーン。ゴーン。ゴーン。

勝五郎と菊は身を寄せ合い、家路に向かいます。

 あんた。ほら、まだ明かりがついてるよ。今日は少し飲んで帰らないかい。
 
 お、ほんとだな。いやーしばらく飲んでねえからな。菊が言うなら、今日は飲んじまうか。
 
 そうしなよ。あんた。今まで、頑張ってきたんだから、あたしが奢るよ。
 
 そうかい。んじゃ、お言葉に甘えて。へへ、人に奢られる酒なは格別だからなあ。かー今日の酒は、格別に美味えにちげえねえや。なんたってよう。。いや、待てよ。

そうだよう。ほらほらー。ねえ、あんた、急に止まってどうしたんだい。

「よそう、また、夢になるといけねえ。」


#2022創作大賞

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