日の当たる場所、あるいは奇跡のない世界:映画「この世界の片隅に」感想
※テスト稼働ということで、2016/12/09のブログ記事の採録です。
――ネタバレを含む。当然ながら。
こういうことをよく考える:
ある作品が特定の人々を感動させる一方で、特定の人々に対しては何の感動ももたらさない、といったことがあるのはなぜだろうか。
僕自身、人と温度差を感じることが多いので、なぜ自分は他のひとと同じような楽しみ方ができないのかと自責の念に駆られる。
単なる個人差と言い切ってしまえばそれまでなのだが、もう少し実のある説明が欲しい。
それで、その作品を楽しむのになにが必要なのか、ということにしばしば思いを巡らす。
さて、「この世界の片隅に」を観てきた。
この映画を観て笑い、涙を流しさえしたのだけれど、
見終わった後に、もやもやとしたものが胸の奥に残った。
部分部分の良さというものは確かにわかるのだけれど、
それでも釈然としない――全体として受け入れがたいなにかを感じてしまったのであった。
「この世界の片隅に」の評判はすさまじい。
肯定と賞賛の嵐。うまく楽しめなかった自分はなにか生き物として大事な部分が欠落しているのではないかという恐怖にすらとらわれてしまう。
しかも、気に食わない描写があるとかではないのだ。
部分部分は僕にとっても好意的に評価することができた。
だが、全体として見てみてると、どこか受け入れがたいのである。
映画館に二回ほど足を運びつつ、色々考えてみたのだが、
それは結局この作品が、「居場所のある人」のための物語であるから、という点に尽きると思う。
この作品は、居場所のある人の物語である。
自分の居場所を作る物語でもなければ、居場所を探す物語でもない。
小姑・徑子の登場だとか、憲兵にノートを取り上げられるとか、幼なじみ(でおそらく初恋の相手)の水原が泊まりに来るとか、
ひとつひとつのエピソードには確かにすずの立場を揺らがせるような予感がある。
しかし主人公の人柄ゆえ、笑い話になったりほろ苦い思い出になったりで、
立場が根幹から揺らぐようなことにはならず、むしろ雨降って地固まるという感じで進んでいく。
さらには、晴美を死なせてしまった後ですら、(主人公の心情的にはそうだったとしても)居場所がないだなんてことにはならない。
予定調和ですらなく、主人公の居場所はあらかじめ用意されているのだ。
そしてこの作品は、「失われた秩序が物語の力によって再生する」類の話ではない。
問題が起き、誰かが傷ついたとしても、なにかドラマティックなできごとが
起こって解決するということにはならない。
できた傷は、善良な人々の健全な日常の営みによって癒される。
取巻く世界の健全性によって秩序は取り戻される。
奇跡などといういかがわしいものが入り込む余地はどこにもない。
健全な世界に住んでいる人々にとっては、魔法もドラマも不要なのだ。
人が救われるのに、奇跡など必要ないのだ。
病気が自然治癒するのを眺めているような、そんな気分にさせられる。
だけれどそのことがかえって越えがたい隔たりを感じさせる。
ちょうど、誰かの家の中の暖かい団欒を、寒い路地から窓越しに眺めているような。
そんないたたまれなさを覚える。
きっと、帰る場所のある人々にとってはごく自然に受け入れられるのだろう。帰れば暖かい家が待っているのは当然なことだからだ。
しかしそうではない人間もいる。
日々は生きづらく、人生は無味乾燥で、この世には自分の居場所がないのだということにうすうす気付いている。
奇跡でも起こらなければ、この生気のない、変わり映えしない毎日に変化は起きない。
そういう日常を送る者にとっては、魔法もドラマもなしに救いのもたらされる「健全な」世界というものそのものがむしろ高度なフィクション――きわめて類い希なる奇跡に思えてしまう。
この映画では世界の健全さについて、説明はなされない。世界が健全であるのかとか、なぜ世界が健全なのかと問われることもない。
その必要はないのだ。なぜなら居場所のあるものにとって世界が健全であるということはもっとも自明な前提なのだから。疑う必要すらないほどに当然のものだから。
この作品の持つ世界の美しさは、日常への、生活への揺るぎない信頼に支えられている。
そうでなければ、ここまで完成されたものはできなかっただろう。
だけれど僕は当惑してしまう。
日常への疑いのない信頼に、願望ですらない健全さに、戸惑ってしまう。
この作品の描く美しい世界を、根底の部分で信じることができない。
疑いを抱く者は天国の門に入ることはできない。
これは世界に愛され、世界を愛することのできる人のための作品である。
この作品を自然に受け入れられるかどうかというのはきっと、越えようのない断絶なのだと思う。
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