力を持たない僕たちがこの世界でできること:映画「天気の子」感想



ネタバレを含む、当然ながら。


遙か昔、世界は可能性に満ちていた。
世界は輝いているはずだった。
働きかければ何でもできるはずだった。
僕たちは何にでもなれるはずだった。


だけれど、いつしか世界はその姿を変えた。


僕たちは可能性を失った。
可能性とはすなわち力だ。
己の望むように未来を変えていく可能性。それは力にほかならない。
だがもう僕たちはそんな可能性を持たない。


僕たちのできることは、たかがしれている。
今から何か新しいことを始めて、意味のあることができるだろうか? 何か世界に影響を与えることができるだろうか?
むしろ、きっとこのまま社会の交換可能な部品としてただ消費され、使い潰されていくだけだろう。
使い捨てられ、打ち捨てられたところで、誰も気づきもしないだろう。
そうした僕たちの残骸でこの世界は埋まっていくだろう。何かの礎になることも、何かの肥やしにもなることもなく、ただ無意味に棄てられたままだろう。


僕たちはどうしようもなく無力だ。
世界を変える力など何一つ持たない。
選挙が近くなれば、ここぞとばかりにどこかの誰かが声高に一票で世界が変わるなどと大層なことをのたまうけれど、そんなものがかりそめのお題目だなんてことは誰だって知っている。
僕たちはどうしようもなくバラバラにされていて、団結することすらままならない。そのことが、僕たちをますますどうしようもなく弱いものに変えていく。
強いものにはヘラヘラと頭を下げ、自分より弱いものを叩いて溜飲を下げる。そんな無力でみじめな存在に僕たちはなっていく。


僕たちは自由に動けなくなった。
色々な「大人の事情」に挟まれ、自分に選択肢があった(かもしれない)なんてことは考えなくなった。
見えない誰かの迷惑になることを恐れて何もできなくなった。
日々の生活は無力感に満たされ、麻痺し、いつしか無力感に満たされていることにすら気づかなくなった。

いつからか僕たちはすべてを諦めてただなりゆきのままに生きていくよりほかなくなった。


「天気の子」は――、まさにそんな僕たちのための作品であるようだった。


可能性の物語としてのボーイ・ミーツ・ガール


「天気の子」は、「力」あるいは「可能性」を巡る物語として読むことができる。
話の筋を雑に要約すると:

東京へ来たばかりの居場所を持たない帆高は「無力」なまま街をさまようが、
拳銃(という「暴力」)を拾い、その拳銃のおかげで陽菜を助けることができる
晴れにすることができる「能力」を持った陽菜とともに天気の仕事をする
陽菜を失い、警察という「権力」に捕まるが、逃げ出し、
正常な世界を失うのと引き換えに陽菜を取り戻す。
そのことは世界の形を決定的に変えてしまう。


居場所のない少年、帆高が不思議な力を持つ少女、陽菜と出会う。夢のようなボーイ・ミーツ・ガール。

お金のない彼らはその能力を使った仕事を始め、人々の望みをかなえることでその存在を認められるように感じる。そして自信を持てるようになる。
だがその力の持つさだめゆえに陽菜は「消え」てしまうし、帆高は 自由(家出)と力(拳銃)のために警察に捕まってしまう。

警察から逃げ出した帆高は、陽菜のいる(狂った)世界か、正常だが陽菜のいない世界か、選択を迫られることになる。


選択と力は表裏一体だ。

力は選ぶことを可能にする。
逆に、選択肢のない者は無力だ。
それに、選ぶ側は選ばれる側に対して絶対的な力を持つ。
就活のうまくいかない夏美も、企画を書いて編集者に送る圭介も、選ばれる側であって、決して選ぶ側ではない。

選択することは、副作用を持つ。
同時にすべてを選ぶことはできない。
何かを選ぶことは、同時に何かを選ばないことである。
あるものを守ると選択するいうことは、同時に何か別のことを放棄することでもある。
だから、ひとりの女の子を選ぶことが、世界の姿を決定的に変えてしまうことにつながるということだってあるかもしれない。


……でもそれは力のある人々の話で、僕たちには何も関係ないのでは?

なるほど、そうかもしれない。
一見僕らが彼らの物語に口を差し挟む余地はないように思える。あるいは逆に、彼らが僕たちに対して示唆するものもなさそうである。

可能性も未来もある彼らは、今の僕たちの代弁者とはなりえない。ボーイ・ミーツ・ガールはある種の神話―—ないしは、若干ノスタルジックなファンタジー――であって、平凡な日常を生きる僕らとはかかわりのない物語なのだから。


とはいえ、この「天気の子」という物語全体が僕たちに関わりがないと結論付けるのは早計だ。

なぜなら「天気の子」は須賀圭介という人物のドラマでもあるからだ。


副旋律としての冴えない大人

圭介の行動を振り返ると、

フェリーで帆高を救う
帆高を事務所で雇う
間宮夫人に娘との面会を懇願する
(禁煙を続ける)
帆高を事務所から追い出す
警察から逃げた帆高を説得する
帆高が陽菜を救いに行くのを助ける

物語としてはまったく目立たないが、実はそこかしこに「選択」がある。
選択した結果も必ずしも(好きな女の子が助かる、というような)華々しいものばかりではない。苦々しい選択をしなければならないときもある。
選択には責任が伴う――結果を引き受けなければならないのだから。

大人は自分の気持ちだけで動くことはできない。
社会のルールや、いくつもの事情に縛られたまま行動しなくてはならない。
ときには、選ぶことを放棄してしまうことだってある。
なぜなら選ぶこと――なりゆきに任せないということ――はとても大変でエネルギーのいることだから。
考えることをやめて流れに任せることはとても楽だから。

だけれどこの物語において、圭介という人物は完全になりゆきに任せてしまおうということにはしない。

娘を引き取ろうと努力するし、(放っておいてもいいのに)わざわざ帆高を説得して警察に投降させようとする。

そして最後の最後で、力、すなわち警察への反抗ということを選び取る。
これはこの作品において、おそらくはじめて明示的に描かれた圭介の選択である。

警察にあらがう、そのことは文字通り彼の人生のあり方を変えてしまったに違いない。

おそらくは公務執行妨害で逮捕されているわけで、娘の萌花を引き取る手続きにおいてもプラスに作用したはずはない。

だがエピローグでは、それなりにいいビルにオフィスを構えているし、萌花とも会えて(もしくは暮らして)いるようだ。
それは決して話の流れから自然に――なりゆきでそうなったわけではない。
「めでたしめでたし」と世界がなし崩し的にハッピーエンドに包まれたためにそうなったわけではない。
彼はなりゆきに対してあらがうことを選んだのだ。

失われた力とその在り処

須賀圭介の物語として読む限りにおいて、この「天気の子」は力を失った者が力を取り戻す物語であるといえる。

妻を事故で亡くし、娘は妻方の親に引き取られ、金もなく、奇跡ともまったく無縁で、半分なりゆきで生きているような須賀圭介という人物が、ふとした拍子に少年を助ける。

誰かを助けること、あるいは誰かの役に立ち、必要とされることが、自分の存在価値――あるいは自信を取り戻すことにつながる。それは帆高と陽菜の物語においても重要な要素だった。
帆高を助け、養うことがきっかけで圭介の物語が動き出す(その意味で「人の命を助けたの初めてかもしれない」という旨の圭介の台詞は示唆的かもしれない)。

ただ「自分ではない誰かのため」であることが人に力をもたらすというのなら、同時にその危うさもこの物語は描いている。それは祝福であり呪いでもある。

陽菜を助けるために使った拳銃のせいで、帆高は警察に追われることになる。また、晴れてほしいという人々の願いをかなえるために使った能力のせいで、陽菜はこの世から消えてしまうことになる。または、警察に取り押さえられた帆高を助けるためにトラックを爆発させてしまい(おそらく)人を傷つけてしまう。
圭介もまた「帆高の将来」のために、(必ずしも圭介本人も帆高も納得しない形で)帆高の前に立ちはだかることになる。
少し踏み込んでいうならば、帆高を助けてしまったために同時に「よい大人」ないしは「保護者」となることを選んでしまった、ということなのだろう。実際、圭介は帆高を説得する際に(柄でもない)常識的な大人の建前を持ち出す。よい大人として振舞わざるを得ないゆえに、帆高が人生を棒に振ってしまうようなことにならないように行動する。

……ではなぜ件のシーンで、帆高を行かせたのか?

「帆高のいうことが"本当"であったかどうか」というのは圭介にとってさして重要な問題ではない。決して、「陽菜を取り戻せるから」と思ったから帆高を行かせたわけではない。帆高に説得されたわけでもない(「よい大人」はそんなことは信じたりしないのだから)。
ただ何もかも失っても陽菜のもとへ行きたいという願いの純粋さ・必死さに心動かされた――というだけではないだろう。

「よい大人」は警察に逆らったりしない。
警察は国家権力であり、それに従うのはきわめて「自然」だ。
まさしく彼らは限りなく自然の側の存在であるといえる。法律を司り、あらがう力の存在を許さない。彼らは圧倒的に「正しい」。
そして公共の福祉、すなわち全体の利益を体現した組織でもある。彼らは全体への奉仕者であり、決して自分のために動いてはならない。
だがそれゆえに、彼らの言葉は帆高に届かない同時に、彼らも帆高の言葉を理解しない。なぜなら彼らは、決して運命にあらがったり人生を棒に振るようなことを選んでこなかった人々なのだから。

だが、圭介はそうではない。運命にあらがったり人生を賭けるに値するものがこの世界にはある――ないしは、あったということを知っている。だからこそ、帆高が彼らに理不尽に蹂躙されることが許しがたい。
それゆえ帆高が取り押さえられたとき、圭介は「あらがう」。
一般論的かつこざかしい「将来のため」などという理由ではなく、己の中の大事なもののために。そのときその瞬間に後悔しないために。

なりゆきに任せず、あらがうということ。
そのことをもって「失った力を取り戻した」というには少々弱いかもしれない。だがそのことは、きっと彼のその後の生き方を変えてしまうには十分なできごとであったはずである。

力を失った僕たちにできること

「小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います」――北村薫

天気――このもっともどうしようもないもの。
どうしようもなく人間の運命を左右するもの。
それは人々の生活を一変させてしまう力を持っている。
天気が猛威を振るうとき、人はなされるがままだ。

だから天気を変えるというのは、理不尽な運命に対する反抗――ないしは抗議なのだ。

抗議。振り返れば「天気の子」は抗議の物語でもあった。

狂った自然に対する抗議。
人柱になるという運命に対する抗議。
あるいは、法をつかさどる警察への抗議。

力があるならば、「どうにもならないもの」にだって十分に立ち向かうことができる。
天気を変え、運命を選び取り、警察に抗うことができる。
力さえあれば。

……では、力を失ってしまったら?

僕たちは諦めてしまうこともできる。
流されるままに、ただなりゆきに任せることができる。
何もかも諦め、眼をつぶり、耳をふさいで、悟ったような顔をして、選ぶことを放棄しながら、つまらない「賢い」生き方をすることができる。空虚な生ける屍として。
ちょうど僕たちがそうやって日々をやり過ごしているように。


――ラストシーン。

一変した世界で、帆高は陽菜に会いに行く。
彼女は水没した風景に向かって、祈っている。

祈り、とは自然に対するもっとも穏やかな抗議の仕方にほかならない。
陽菜は天気を変える力を失ってしまったが、決してすべてを諦めてしまったわけではない。

※ ※ ※

僕たちは力を失ってしまったかもしれない。
今の僕たちのあり方は、かつての僕たちの選び取った結果なのかもしれない。だが、かといってそれを安易な自己責任論で無条件に受け入れなければならないということではない。僕たちは、何にだってあらがうことができる。自分自身のため、あるいは何か胸を動かすもののために。

それは誰かのボーイ・ミーツ・ガールの物語かもしれないし、あるいはもっと別のものかもしれない。だが、さからい、あらがうならば、僕たちは決して無力ではない。

そうやって、なりゆきにあらがい、異議を差し挟み続けることで、自分たちの世界――あるいは陰鬱な日常――の姿を変えてしまうことすらできるかもしれない。
その可能性を、僕たちは今でもきっと秘めている。

だから僕たちは、ひょっとしたらまだ大丈夫なのかもしれない。


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