この世には左右学なるものがあるらしい

この左右学という言葉に初めて出会ったのは、知的好奇心で右利きについて調べていたときでした。

人間が生まれた時代から現在に至るまで、地球上のどの文化圏においても人間は右利きの割合が高い(ホモ・ハビリスという原人類では6割程度であった右利きの割合が時が経つにつれ9割程度まで上昇した)という話を聞いたことがあり、そのことに興味がありました。

右利きについて調べていると、利き手のみならず、左右に関して幅広く扱った資料に出会うことが増え、その中に左右学はありました。

そもそも、この左右学というのは、広く左右に関しての学問を指しており、扱う事象の範囲は衣服言語儀礼などの文化全般から細胞生物学に至るまで非常に多岐にわたります。なので、左右学についての資料を探していると、左右学という言葉を用いずとも左右がテーマとされてる書籍や論文を見つけることができ、またこれらの筆者は文化人類学者、ジャーナリスト、生物学者などであり、この左右学というものに対するアプローチが様々な方向からなされていることを見て取ることができます。

なのでこれから左右学というものに少しでも近づきやすくするために、独断で偏見で判断した、左右学への主な2つのアプローチを紹介したいと思います。

文化的側面


1つ目は、文化的側面からのアプローチです。
代表的な例としてあげられるのは、東西南北に結びついた左右に関しての価値観です。例えば、西洋文化圏では右優左劣が一般的なはずです。それには宗教が強く影響しており、キリスト教の聖書にも右と左に関する記述されている部分には右が優位とされていたと捉えることのできる箇所があり、やはり聖書が記された時代から右が優位とされていたということができるでしょう。また、イスラーム教徒の中には、自分の右側にいる天使は良いアドバイスを、左側にいる悪魔は悪いアドバイスをささやいてくれると考えてる人もいます。この右優左劣という価値観は東洋文化圏にも共通しているものではありますが、こと東アジア(主に中国を中心とした)文化圏では右劣左優の価値観の時代もありました。現代では全世界的な西洋的文化の浸透により、日本でも左に比べ右がより優位であるという価値観が優勢なように思われますが、左様という言葉や左大臣が右大臣よりも位が高かったということからも、日本は単純な右優左劣という構造ではなかったことがわかります。

生物学的側面


2つ目は、生物学的側面からのアプローチです。例としてあげられるのは、人間で言えば左(本当は真ん中)にある心臓や大脳半球優位性(否定的な意見もある)などなど、人間以外で言えば片方のハサミだけが大きいシオマネキというカニや左の前歯が発達しすぎた結果角のようになってしまったイッカクなどがいたり、これら生物全般の構造としての、または生態としての左右を考えていきます。これは精子と卵子が合わさって受精卵ができ、そこから細胞分裂が倍々になされていく中で、一体いつ生物の構造としての左右差が生まれるのかという点から考えていくので、ミクロからマクロまで非常に広い範囲から考察がなされます。このアプローチは内容が深まるにつれ一般教養レベルでは到底追いつかない知識を求められるので、個人的には素人が軽く興味を持って調べるには限度がある気がします。ただ、扱う内容がとても根源的なものなので、理解できたときの納得感やすっきり感は文化的側面からのアプローチよりも期待できるのではないでしょうか。

単純に二元論に収めることができない


この2つのアプローチでとりあげていないもので、左右学において非常に重要なものがあります。それは利き手です。これは左右学の中心と言っても過言ではないほど大きな存在ではあるのですが、まだ具体的な利き手の発生原因や利き手の形成過程などについて科学的に相当程度な信頼をおけるものが発見されていないことや、利き手は生物学的特徴でもあるが同時に文化的特徴でもあるため、先ほど挙げた2つのアプローチには収まりづらいといった理由があり、利き手については言及していませんでした。利き手が存在するのは人間に限った話ではないらしいですが、はじめに述べたとおり人間に関して言うと9割程度が右利きだとされています。様々な指標があり何をどうしたら右利きと判断するかはとても難しいところですが、ここまで一定の動作に使用する手に偏りがある生物は少ないということは興味深いです。この他にも、利き手という考え方から間違っていてそもそも利き手など存在しないのではないかという主張がなされていたり、特別な抑制がなされている条件下を除き左利きの割合はどの文化圏どの時代においても1割程度に落ちつくのではないかという主張もなされています。利き手は非常に身近な概念でありながら、その構成は非常に複雑であり、数多くの物好きが研究しても未だに解き明かすことはできていません。ここまで読んでくださっているみなさんは十分物好きかもしれませんが、ここでそんなみなさんに1つお伝えしたいことがあります。それは、右と左というのはとても曖昧であるということです。

左右ってなーんだ


今まで左右について調べたことがある人がいれば共感をしてくれるかもしれませんが、たまにいる左右盲の人を除いて、基本的には左右が曖昧だとは考えづらいのではないでしょうか。自分の利き手を忘れてお箸をどっちで持っていいかわからなくなるなんてことはないだろうし、カーナビが右に曲がれと言っているのに左に曲がりようものなら同乗者からなにしてんの、と言われる可能性も十分にあります。それぐらい左右は当たり前に区別できるものである、と認識されているはずです。ではここで一旦、左右という対の概念と同時に用いられることの多い上下について考えてみましょう。物事の向きについて言及されるとき、上下左右という言葉が使われることが多いです。この上下というのは文字通りその物体の上と下の方向、主に縦関係の向きについての区別をしています。実際今こうして書かれている文章も左から右、上から下に読まれていっているだろうから、この文章の向きは上から下ということができます。しかし、世の中のすべての文字がこの文章と同様に左から右に読まれるわけではありません。右から左に読まれる文字として有名なのはアラビア文字でしょうか。また、日本では昔は横書きは右から左に読まれていたし、現在でも縦書きの文章は右から左に読まれます。今までの歴史上人類が使ってきたとされる文字の種類はおよそ100種類程度だそうですが、右から左に、左から右に読まれるものはあれど、下から上に読まれるものは聞いたことがありません。もし存在するにしても下から上に読まれるものが少数派であることはたしかです。なぜ下から上に読まれる文字が少ないのか、ということは専門家の方の説明なり論文なりにお任せしたいのですが、基本的に上から下に向かっていくという構造が多いのは、個人的には重力の存在が大きいように思います。なにか物体が存在していて、それが円や立方体のような均等な形ではなければ、宙に浮かせたときに重いほうが下になります。これは重力が存在しているだけで縦関係の方向が決まってしまうことを示しています。一方、左右について考えてみると、重力だけではその方向を決めることができず、どうしてもその物体の縦関係ではないある方向、横関係のある一定の方向、つまり正面を決める必要が出てきます。そうかなるほど、正面が決まれば左右がわかるようになるんだな、となればいいのですがそんな世の中甘くありません。まだまだ左右は曖昧です。左右が明確に判断できる要素は正面だけでは足りず、あともう1つ必要なものがあります。それは主観性がある程度あることです。そう言われましても、、、ってなりますよね、多分そうだと思います。なのでちょっと考えてみてください。

向かって右 ってどっちですか?

一瞬でわかればそれでいいんです。でも、もしかするとどちらなのか一瞬悩むこともあるのではないでしょうか。この言葉は舞台に登壇している司会者の方から参加者に向けて出口を示す際に使われたりしますが、この「向かって」という言葉の意味は司会者の方から見て右なのか、私達参加者から見て右なのか、どっちだっけな??って悩む人も一定数いる、はずです。似たような話で言うと、僕は小学生の時電車に乗っていて、次の出口は右(or左)ですというアナウンスを聞くたびに、いやどっちかわからんやんけと思っていましたが、進行方向に対してなんだなぁと気づいたときはだいぶスッキリしました。

さきほど、向かって右or左の例えを出しましたが、もう1つだけ例えを加えてこの章を終わりにしたいと思います。

なんとなく想像してみてください。とある神社にはとても大きな木があって、そこには特別な気があるらしく、気がある人を振り向かせることができるようになるパワースポットとして人気になっていました。その木を見に行ってみるとたまたま運が良かったのかまわりに人気のない状態で、あなたはその大きな木の前に立っている看板の字をゆっくり読んでみました。


幸運になりたいあなたへ
この木を右に2周してください



幸運になりたいあなたは看板を読んでから歩き始めますが、左と右、どちらの方向に周れば正解なのでしょうか。

もちろん非常に重要な前提として、日本語の助詞の用法を含めたこの文章のわかりづらさがあるというのはたしかにそうなのですが、今回は


・右から周り始める(自分の右に向かって進む)

・その木を真上から見たときに右回り(時計周り)になるように、自分の左に向かって進む

この2つの解釈ができてしまう気がする、という点に注目していただいて、この説明のしづらさというか、ん?ちょっと待てよ?えーっと右に回るっていうことは、、、というような頭の混乱を感じていただけたのであれば幸いです。

さらに言うと、特に説明もせずに使っていた
真上から見たとき
というのも左右を定めるためには非常に重要な要素です。木の例に関して言うと、真上から見たときに右回りのものは、土中にある根っこの部分から見上げると左回りになってしまいます。さきほど左右を決めるためには正面が必要だとお伝えしましたが、仮に正面が決まっていたとしてもそこに左右に関する動きが加わってしまうと、左右を明確に判断することができなくなってしまいます。これは主観的なある一定方向としての正面ではなく、客体に対しての左右軸と直角に交差するような一定の視点が、左右の判断に求められる場合があるということを示しています。

まとめ的な何か


自分なりに載せる内容を絞ってここまで様々な話をしてきましたが、左右学がなんであるかという具体的な定義がないために、なかなかに内容がとっちらかってしまいました。

個人的な考えとしては、左右学で扱われる領域は様々な事象の中で左右に関するものの集合体であると考えているので、その範囲は無限に近く、明確にどこからが左右学の範囲だと言い切るのは難しい気がします。

しかし、この広すぎる左右学の領域は、同時にそれだけアプローチの種類が多いことも示しています。もし誰かが興味を持って何かを調べてブログでも論文でもなにかしらの形に残してくれて、それがたまたま左右に関係していた場合、左右学の発展に寄与したと言うことができるはずです、多分。

なのでこの拙い文章を最後まで読んでいただいたあなたが、少しでも左右学に興味を持ってもらえれば書き手としてとても嬉しいし、もし左右に関して調べ物をしてくれちゃったりしたらそれはもう書き手ではなく、一人の左右学に興味を持ってくれた、同胞が増えたことを熱烈に歓迎するでしょう。

今回ここに書いていた内容は根拠なく適当に書いていたわけではなく、自分が読んだ本や調べたサイトにかいてあったところから引っぱってきたものなのですが、ここに出展を明記できていないので、根拠のない信憑性の低いものになってしまっていることは重々承知しております。なので、そんなしっかりしたものではなく、物好きがたらたら自分の好きなものについて書いた駄文のつなぎ合わせぐらいに認識してもらえれば幸いです。

最後に、左右学に興味を持ってもらえた方々のために、今まで読んできた中で面白かったなぁと思った本を紹介して終わりたいと思います。ここまで読んでいただき本当にありがとうございました。


対称の起源
左利きは天才?
左右学へのいざない

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