野良カウンセラーの読解力の問題。あるいは想像力の問題

野良カウンセラーたちの間違い

 現在、通俗心理学を批判する記事を書いているなかで、野良カウンセラーについても取り上げた。その記事を書くにあたっていくつか驚いたことをここに記す。

 私は基本的に記事を書く場合、取り上げるテーマについてはそれなりに調査をしてから書くようにしているのだが(調査をするのが当たり前だと思うが、どうやら調査をしない人の方が世の中的には多いみたいだ)、野良カウンセラーについて調べているときにいくつか驚いたことがあった。

 それは野良カウンセラー批判の記事(https://news.yahoo.co.jp/articles/26b73dca246f3c628bc2f4af54e496d1f184814e)に対して、野良カウンセラーたちが猛烈な非難をしていたことだ。

 例えば、次のような感じに。

・公認心理師と臨床心理士以外の者にはカウンセリングの技術が無い
・公認心理師にだけカウンセリングを出来る様に法整備しろ
と、自身の資格や業界の権益確保を「野良カウンセラー」と言う、怪しげな表現を用いて利益誘導しているに過ぎません。
この様な心理職が横行することこそ、心理職界の多様性を妨げる害悪としか思えません。
勿論「本当にカウンセリングなんて出来るの?」と感じる資格もありますが、それを「公認心理師ならばカウンセリングが出来る」と公言するのは詭弁です。
(『野良カウンセラーとは無礼千万』より)

 上記はまさしく野良カウンセラーのブログからの引用だが、正直、この野良カウンセラーの読解力を疑うレベルの論点のずれっぷりに驚かされる。

 まず、そもそも「公認心理師にだけカウンセリングを出来る様に法整備しろ」というのが「怪しげな表現を用いて利益誘導しているに過ぎません」と述べているが違う。何故なら、公認心理師がカウンセリングを独占する目的は利益誘導ではなく、カウンセリングの質を守ることだからだ。野良カウンセラー批判の記事の中心的主張は次の一文だ。

「(前略)だから、今後カウンセリングが業務独占の対象となるようなら、質の担保にもなるし、カウンセリングを受ける人の保護にもつながると思います」
(『なぜネット上に「野良カウンセラー」が跋扈するのか――自称可能な肩書が生む、メンタルヘルスの危険性』より)

 誰でも彼でもカウンセラーを名乗れる状態は明らかに問題がある。そうした問題を無視してそれを「多様性」などという言葉で誤魔化している方こそ、ただの思考停止であり、問題だ。

 大事なのは、誰でも彼でもカウンセラーを名乗れる無秩序な状態にある程度の法整備をすることで、カウンセリングの質を守ることである。

 また、野良カウンセラーの次の一文も間違っている。

勿論「本当にカウンセリングなんて出来るの?」と感じる資格もありますが、それを「公認心理師ならばカウンセリングが出来る」と公言するのは詭弁です。
(『野良カウンセラーとは無礼千万』より)

 確かに、公認心理師ならば絶対にカウンセリングができるといった保証はない。しかし、これは程度の問題である。

 つまり、公認心理師にもミスはあるが、公認心理師ではない人達よりは遥かにミスは少ないということである。

 こうした問題は「カウンセリングのミスをする/しない」のゼロヒャク思考で考えても仕方がない。

 人間である以上、誰もが失敗はする。しかし、重要なのはどのくらい失敗をするのか、失敗するにしてもどの程度の失敗なのか、という程度問題である。

 上記のブログを書いた野良カウンセラーはゼロヒャク思考にとらわれすぎて本質的な問題をわかっていない。

 専門家であれ、人間である以上失敗するのは当然だが、非専門家より失敗が少ないということの方が重要なのである。アメリカ海軍大学校教授のトム・ニコルズは次のように述べている。

 こうしたことすべての根底には、専門家がある問題について間違えることと、専門家があらゆる問題について常に間違っていること、その違いを一般の人々が理解できていないという事実がある。実際のところ、専門家は間違っていることより正しいことのほうが多い。
(中略)
 重要なのは、専門家は非専門家より間違うことが少ないという点だ。
(トム・ニコルズ 『専門知は、もういらないのか』)

 ニコルズの言うように、「重要なのは、専門家は非専門家より間違うことが少ないという点」である。この事を、上記の野良カウンセラーは全く理解できていない。

 分かりやすくするため、自動車免許(車種など細かなことは置いておいて)を例に考えてみよう。日本では自動車免許を持っていない人間は自動車を運転してはいけない。

 しかし、これは自動車免許を持っている人しか運転してはいけないという独占状態であるわけだが、この事に問題があると考えている人などいるのだろうか。

 中にはいるのかもしれないが、おそらく、多くの人間は自動車免許を持っていない人間も運転できるようにすべきとは考えないはずだ。何故なら、運転する技能をもたない人間の運転する自動車が街に溢れると安心して外出できないからだ。

 では、こうした状況に対して「自動車免許を持っている人だって事故を起こすことがあるのだから、自動車免許を持っていない人の運転も認めるべきだ」と言ったとして、その事に何か意味があるのだろうか。

 私には意味があるとは思えない。確かに、自動車免許を持っている人間も事故は起こす。しかし、無免許運転を認めるよりは遥かに事故を抑えているはずだ。重要なのは(事故をゼロにするという非現実的な目標ではなく)事故を減らすために、ある程度の技能をもたない人には運転させないということである。これと同じことがカウンセリングにも言える。

 こうした程度問題を全く理解できていない反知性主義的な野良カウンセラーの主張ははっきり言って馬鹿げているし、論点もずれているし、有害である。

 また、他の野良カウンセラーのブログも馬鹿げている主張ばかりである。例えば、次のように。

「いろいろな『野良カウンセラー』のプロフィールを見ると、『かつて私はうつ病で悩んで、このセラピーを受けてよくなりました』といった内容を書いていることが多い。やはり自分の中にコンプレックスやメンタルの問題があって、そこから今度は『先生』と呼ばれるような立場になって、自分のコンプレックスを癒やしたいっていう心理があるのだと思います。周りに『先生』と呼ばせて、自分の劣等感を癒やして、自尊心を守ろうとするんじゃないかと思いますね」
この文章がなかったら、ここで取り上げたりはしなかったと思います。自分がかつて味わった苦しみから、相手の苦しみが分かる。
全く同じでなくとも、その辛さが深いことはわかる。
だからこそ、温もりを持って心を支えたい。
ココナラで知り合ったお悩み相談出品者の方々は、こんな志の人が多い。
強い覚悟と優しい思いを知りもせず…と腹が立ちました。
(『野良カウンセラー|‪‬お悩み相談Room‪ ふわり|coconalaブログ‬』より)

 野良カウンセラー批判の記事に対して、「全員が全員、自尊心を守るために野良カウンセラーをやってるのではない。正義感や優しさをもって野良カウンセラーをしている人もいる」という非難である。

 確かに、野良カウンセラー全員が屑な動機(お金儲けや承認欲求など)だけでやっている訳ではないだろうし、中には正義感や優しさなどを動機にしている人もいるのだろう。

 しかし、記事の文章をちゃんと読んでみよう。

「いろいろな『野良カウンセラー』のプロフィールを見ると、『かつて私はうつ病で悩んで、このセラピーを受けてよくなりました』といった内容を書いていることが多い。やはり自分の中にコンプレックスやメンタルの問題があって、そこから今度は『先生』と呼ばれるような立場になって、自分のコンプレックスを癒やしたいっていう心理があるのだと思います。周りに『先生』と呼ばせて、自分の劣等感を癒やして、自尊心を守ろうとするんじゃないかと思いますね」
(『なぜネット上に「野良カウンセラー」が跋扈するのか――自称可能な肩書が生む、メンタルヘルスの危険性』より)

 ここで指摘されていることは、あくまでもそのような野良カウンセラーが多いというだけで、すなわちすべての野良カウンセラーに共通する特徴を挙げているわけではない。

 「すべての『野良カウンセラー』」ではなく、「いろいろな『野良カウンセラー』」と書かれている点や、「全員が書いている」ではなく、「書いていることが多い。」としている点からも、例外があることはいくらでも読み取れる。

 つまりだ。例外があるとしつつも、野良カウンセラーの特徴はこういう人が多いよねという主張に「例外として優しい人、正義感がある人だっている」というのは的外れな非難でしかないわけだ。

 この野良カウンセラーは読解力がないとしか思えない。この野良カウンセラーは、全く野良カウンセラーの問題点を理解できていない。何故なら、この野良カウンセラーのブログは次のようにしめられているからだ。

せっかく日本の未来のために大切なことを掲げているのだから、このような偏見に満ちた内容を公の場に書くのは残念です。
(中略)
野良と言われようともそこは全く気にしません♪
全国の公認心理師に敬意を払い、我が獣道を進みます✨
(『野良カウンセラー|‪‬お悩み相談Room‪ ふわり|coconalaブログ‬』より)

 優しい心をもった野良カウンセラーだっているわけだし、私も野良カウンセラーを続けていくという訳である。

 もちろん、その優しい心や正義感は大事だろう。しかし、専門知を持たない野良カウンセラーの正義感だけのカウンセリングも問題であることにかわりない。どれだけ正義感があろうと、優しい心をもっていようと専門知がないのであれば、そのような野良カウンセリングは有害でしかない。

 例えば、目の前にいる瀕死の人間を救いたいという正義感や優しさをもった一般人が、手術の知識を全く持っていないとして、その人間に優しさや正義感だけで手術をやってのけることなど可能だろうか。どう考えても不可能だ。

 世の中には正義感や優しさだけではどうしようもできない問題が山ほどある。そういう問題を理解できず、何の知識も持っていないアマチュアが正義感や優しさだけで人を救おうとするのは結果的には有害なことだっていくらでもある。

 野良カウンセラーの問題点として、指摘されていることはまさにそのようなことであって、上記の野良カウンセラーはその問題点を全く理解できていない。

 どちらの野良カウンセラーも、野良カウンセラー批判の記事の論点を理解できていない。読解力がないのか、頭が悪すぎて理解できていないのかわからないが、どちらにしてもこのような野良カウンセラーがろくではないことだけはわかった。


間違った平等性

 少々言い方はキツくなるが、国家資格(公認心理師の資格)を持っていない人間が、それでも誰かのカウンセリングをできると思い上がることこそ「何様のつもりなのだ?」と思うのだが、その野良カウンセラーが「無礼千万だ」と逆ギレしている姿は、もはや滑稽ですらある。

 「多様性」や「平等」という言葉を使えば、何でも正義になると思考停止しているのかもしれないが、そうではない。

 「誰もが平等にカウンセリングできる(誰もが平等にカウンセラーを名乗れる)」「多様な人がカウンセラーを名乗れる。それが多様性だ」と、そう言えば何でも許されると思い上がっているのかもしれないが(あるいは思考停止しているのかもしれないが)、そんなこと許されるはずがない。

 どんな平等でも、どんな多様性でも認められるわけではない。例えば、「人を殺すことが趣味だ」という人間がいたとして、その趣味は多様性の名のもとに認められるべきだと言えるのだろうか。

 そうは言えない。哲学者カール・ポパーの「寛容のパラドクス」でも指摘されているように、不寛容を生むものは認めてはいけないのだ。

 つまり、言い換えると、他者に危害を及ぼしかねない不寛容なモノは、多様性に含めてはいけないということである。(差別することが多様性に含まれないのもこれが理由である)。

 また、何でも平等ならば良いというわけでもない。説明すると長くなるので省略するが、詳しくはロールズの『正義論』を読めばわかる。

 平等ならば何でもいいという「平等バイアス」の問題は認知科学の視点からも批判されている。

 今時、「平等ならば何でも万歳」「多様性ならば何でも万歳」などと思い込んでいる人間ははっきり言って不勉強だと言わざるを得ない。

 さて、ここまで野良カウンセラーを批判してきたが、そもそも野良カウンセラー批判の記事を読み解けない人たちに人の心が読み解けるとは到底思えない。このような不勉強な人がカウンセラーを名乗れる状況にある程度の歯止めが必要なのだと私にも思える。



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参照

『野良カウンセラーとは無礼千万』
(https://ameblo.jp/counselormatsukawa/entry-12707035642.html)

『野良カウンセラー|‪‬お悩み相談Room‪ ふわり|coconalaブログ‬』(https://coconala.com/blogs/2129937/131478?ref=blog_top_new_blog

『なぜネット上に「野良カウンセラー」が跋扈するのか――自称可能な肩書が生む、メンタルヘルスの危険性』(https://news.yahoo.co.jp/articles/26b73dca246f3c628bc2f4af54e496d1f184814e)

トム・ニコルズ(著) 『専門知は、もういらないのか』 みすず書房 2019年7月11日

 

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