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短編小説 〈でも、そこにあったから。〉

ぱたん。
音を立てて本を閉じる。
カバーに学校の図書館特有のビニール加工がしてある短編集は、机上の備え付けLEDライトの光を受け、てらてらとひかっている。
図書室で借りてきた短編集は、まとめて借りたものの中の一冊だった。
貸出期限はとうに過ぎている。
が、まとめて借りたのが仇になった。返す気力など湧かない。
ハードカバーの本が好きだ。
小説でも、ノンフィクションでも、はたまたミステリでも、ハードカバーが一番機能的で、魅力的だと思っている。
その分、値段は上がるけれど、不思議とそんなところまで愛おしい。
たった今、読み終えた短編集もハードカバーだった。
一年程前にも一度、借りたから初めて読んだわけでは無い。
でも、なぜか内容が思い出せず、読んでいる間中たくさんの物語が頭の中で浮き沈みしていた。ぷかぷか、ぷかぷかと不思議なぐらい頭の中の整理がつかないような内容が詰まっていた。そのくせ、短編集の主人公たちは決まって不幸そう、あるいは自分のしあわせに奇妙なプライドを持っているようで、なんだか少し可笑しかった。
「まあ、私も別にそんな中に入らないわけじゃあない。」
口に出してひとりごちると、自分も不幸みたく思えた。
そんなはずはないのに。
課題をしなければならない。
教師は教科ごとに課題が重なることなど、たぶんそうやって生徒が苦労していることなど考えていない。例え、自分がかつてそうだったとしても。
そういえば、かつて、驚くほど継続や集中が得意だった友人がいた。小学校の頃。名前をゆみちゃん、と言った。
私は周りよりも計算問題を解くのが苦手だったけれど、隣の席のゆみちゃんはいち早く終わらせて、暇を潰していたっけ。勉強だって、家で予習復習をしているようで、テストで九十点台以外を取っているところを見たことが無かった。
一度、ゆみちゃんに聞いたことがある。
「なんでそんなに勉強ができるの?」
と。しかし彼女は、少し考えてこう答えた。
「当たり前のことをしているだけ。」
 残念ながら、それは当時の私の当たり前ではなかった。
「そうなんだ!」
明るく返して、質問はそれっきりだった。しかし、彼女がごく普通のことのように答えた様子を見て、何か羨望のような、嫉妬のような、ものを感じなかったわけではない。はっきりとは覚えていないけれど。
「ひとつ前の日常。」
 短編集のタイトルを声に出して読む。少し前の日常に、今の日常に、しあわせと言えそうなものが存在することを信じて。
声に出したら、急に唇の乾燥が気になってリップクリームを塗った。
喉が渇いていることにきづき、お茶を飲んでから塗ればよかったと思った。
それから。
「アーユーハッピー?」
この間の英語の授業で出てきた教科書の例文を口ずさむ。
ハッピーかどうかは知らないが、夕方と夜の境界線でこどもが1人、強がっていることだけが事実だった。
そろそろ課題をしないと、22時に寝られなくなる。
シャープペンシルを手に取ったところで、スマホの着信音が聞こえてきた。
おおかた、友人の暇つぶしだろう。
私はヘッドフォンをしてやり過ごすことにした。
ヘッドフォンをしたら、着信音に設定している力強いピアノリフは聞こえなくなった。
代わりに、ドビュッシーのつめたい、アラベスクが耳に雪崩れ込んできて、夜と夕方はそこにあるだけになった。


〈でも、そこにあったから。完〉