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なんだか書きたい、徒然なるままに

これでいいのだろうか、こんな理由でいいのだろうかと、ひとりごちる。でも書きたいのだからしょうがない。まだ朝の光といえるか、窓際にさしている。


わたしの生活だと、一日の予定は大まかにたてるけど、出勤時間がないから、ある意味自分の意志の力が一日のペースを決める。出かけない日は、過ごし方は自分次第であるわけです。出かけないからこそとも言える。幸い、母がいてくれて、また母はきっちりしてるので、一日のリズムは同じようになってくる。正直な話、薬の治療を受けているわたしは、決まった時間に食事をするほうが理にかなっている。


もう仕事を辞めて一年になるけど、正直言って働いていた頃にくらべたら、どれだけ解放されているか身をもって感じている。どのあたりが解放されているかはまた特別な話になる。そんなこといってたら、怒ってしまう人もいるかもしれない。でも、朝ごはん後のこんな贅沢な時間、ゆったりとした時間、鳥の鳴き声、光うつくしく、わたしは幸せです。生きてれば、なんでも自由にはいかないけれど、どこを自由にするかは自分で決めればいいとおもう。わたしには、家族は母しかいない、それなら確かに一般的な家庭より自由だろうとおもう。持ち家もない。身の回りの持ち物しかない。


時代がどう移り変わってゆくのか、それは今より厳しくなるのか、どうなのかわからないけれど、結局は今だって選びたかったものやことが手に入ってきている気がしてならない。しっかり、その時選んでいる。自分のおもいの結果な気がする。すべてとは言わないけれど。


発症したことは、今おもえば、神様からのプレゼントであって、発症してなかったら、もっと社会に迷惑をかけるような人間であったとおもう。発症したからこそ、気づくことがたくさんあったので、なんとかなった。障害に感謝しています。弱者の気持ちは、当事者になってみないとなかなかわからないとおもう。だから、弱者になってよかったんです、そう気張る必要もない。わりとその時々の今を肯定するのが得意みたいで、そうやって生きていってる。刹那とはおもってないし、先のことも考えるけど、目の前にあることをやっていくことで、前へ進むしかないとおもう。


お金の問題は誰にとっても厳しいことかもしれない。わたしは幸い、障害者年金をいただいているので、父母の力を借りながら、ありがたくこの暮らしを送っている。いただくばかりでは申し訳ないし、できることをやりたいのでnoteに投稿している。今、これしかできることがないのが正直なところ。やれることがあるだけ恵まれている。そんなにできることって多くないから。


皆さん、ありがとうございます。



それでは、またお会いできますように。
ありがとうございました。

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