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お絵描き遍歴 チビりねん編


今日は過去に書いた作品も紹介しつつ
私の人生の振り返り的なものを書いて
いこうと思います~

幼児時代

年中さんの時の絵。今の絵に通ずるものを感じる。
今もこういう絵に憧れる。



お父さんに連れられ、パチンコの託児施設で、
タバコ臭い気だるげなお姉さんと遊んでいた記憶が大半。

お菓子を一つ持ち込んでよかったので、
おやつの時間まで、

絵を描いたり、

この色の組み合わせ今でも良いなと思う。


外を眺めたり(窓には勝手に開けられないよう色んな細工がしてあって、
カラフルな牢屋みたいだな〜と思っていた記憶が今でもある。)

ウレタン製のカラフルな
クッション積み木で遊んだ記憶もある。

ぴょん太


ちゃんとした幼稚園の方の記憶は、
折り紙を二つ折りにして、
そこにゲーム画面とボタンを書き込み、
DSごっこをしていた記憶がある。

たまごっちのお店遊びゲームが
欲しかったので、
めめっちと口ぱっちばかり描いていたような。

全く関係のない絵

実際にDSもたまごっちも
持っている子から、
私の折り紙DSを作ってほしいと
複数人から頼まれて、その子たちの分も作ってあげ気がする。
模倣して、自分で作り出す子もいた。



そしてクラスの大半の子が一時期これで遊んでいた。
イカれてんなと今では思う。

この絵は形がカッコよくて今でも好き

当時から人付き合いは得意で、
いつも周りに友達がいた。

そんで、
先生に注意されない程度の
遊びを作るのが楽しかった。

この辺りから、

「ないから作る」

「作ったものに人が集まる」

という体験が始まった気がする。

この絵も着せ替えシールにあるようなブーツが
欲しくて描いた絵だった。


後々本物のゲームをやらせてもらうが

「この程度か……」と思って以来
あまりゲームをしたいと思わなくなった。

自分で妄想して、折り紙に
ゲーム画面を描いてる方がよっぽど楽しかった。



謎のPL……
幼児あるある。
知ってる英語を組みあわせたかっただけシリーズ



当時から、
絵を描くのは好きだったけど、

ある日の図工の時間に
先生にもっと早く
描きなさいといわれて、

先生が私の絵に加筆した。

元々お父さんを描いていたところに
先生が架空の私の弟を描いた。

弟なんていやしないのに。

当時は年中さんくらいだったけど、
その時から変な所にこだわりが強くて

お昼の時間になったら、
フォークで刺してやろうと思った。

あんな先が丸々としたフォークで。

いもしない弟を書き加えられて、
まだいるお父さんが消された事が、
異常なほど許せなかった。

その後、作品賞的なものも
確かもらったけど、

全部無価値にしか思えなかった。

それ以上に不快だった。

褒められれば褒められるほど、
虚しくなった。

本当の事を言い出せない自分に嫌気がさした。

「先生に手伝ってもらって、楽もできて、
その上褒められまくって超ラッキー!」

という気持ちになれる子供だったら、

色々楽だったんだろうなと今になって思う。

結局そんな先生に対する小さな敵意も
お昼食べたら眠くなってそのまま昼寝した。




今でもこの時の絵は祖父母の宅の
リビングに飾られてるが、

「本当はその絵、
大半を先生が描き直したんだよ」

なんて言えるはずもなく、
今も煌々と飾られ続けている。


小学生時代

今度は牛乳瓶の蓋に絵を
マッキーで絵を描いたりした。

そして、
遊戯王とメンコが合わさった
ような遊びが流行った。

遊び自体には興味がなく、
栓に絵を描いてそれを渡し、
友達からチヤホヤされるのが好きだった。

まさに承認欲求だ。

そしてこれも、
急に熱が冷めて即やめた。

代わりの栓絵描きが
しばらく続けていた。

外遊びも中遊びも
めちゃくちゃした。

他学年ともめちゃくちゃ遊んだ。

雨の日も雪の日も。



ウサギが可愛かったので、
突然、飼育員を始めた。

何年も続けた結果


うさぎには嫌われ、

鶏には異常に好かれた。


段々、鶏も可愛く見えてきた。
相変わらずトサカはグロテスクだけど。

鳥が好きになったのは
この鶏のおかげだと今になって思う。


中学校時代


中学1年生の時の絵(この頃から日付も記入するようになった)

カナダへ

自然が豊かなカナダに行ってみたかったので

申し込み、
親の同意がいるところまで
一人でクソでかいビルで
テストと英語面接を何回も受け、
なんとか合格。

(成績収めて、レポートやらなんやら書けば
金は工面するって県?のやつだった)



母に私がカナダに
行くことのメリットとデメリットをプレゼンをして、

親子面接みたいなものにも着いてきてもらった。

全く反対されず、背中を押される。


私は幼少期からこういう感じの人間だったので、
いつかくる事だと思っていたらしい。

大当たり〜!


やりたい事のためなら、
なんでもするってのは、
この時からすでにあった。


そして、少し前まで小学生だった私は
突然一人でカナダに飛びたった。

スタッフの人や
他の合格者と共にカナダに到着し、

自分のホストファミリーと合流。

ホストファミリーは、

母親が教授
父親がテレビディレクター
そしてとても優しい三姉妹のいる家にお邪魔した。

庭にはプールがあり、
週末には、動物園や、植物園、
別荘、クルーザーに乗った。

これが貴族の生活か…と
毎日新鮮すぎた。

パーティーもここで
初体験。




ホストファミリーから
「ホームシックは大丈夫?
家族に電話する?」
と何度も何度も心配されたが、

そんなこと微塵も感じなかった。




英語をペラペラ話せるわけでは
全くないので、

伝わらないことはノート片手にイラストを描いて
ホストファミリーと生活する。

カタコトでもイラストやジェスチャーで
言いたい事は案外伝わるもんで、
この時から、

「日本で生き辛くなったら、
海外にすぐに飛び立とう」
と思うようになりだした。


この辺りで、美術室に眠っていたコピックに出会う
ルネ ラリックの模写にはまる。

中2で画用紙に裏と表があることを
初めて知る。
だけど、勿体無いのでそのまま
裏も表も使い続ける。(なお現在も)

2クロッキー

中学生ながらも
目の前でヌードが描きたかったのだけど、

誰にどう頼めばいいかわからず、
私服の友達の絵を描きまくる。

のちにこれがクロッキーなるものだと知る。

こんな程度しか描けない自分にイライラしながらも
常に絵を描いていた。

クロッキー



勉強ノートに落書きばかりしてた
化粧の濃い同級生は可愛かった



この時くらいから
デザインに興味を持ち出す



今でも気に入ってる当時のデザイン画






その中でも
ファッションデザインに興味を
持ち出す。



だけどそれが……

終わりの始まりだった

こういうのをずっと描いてた。
これは好きなデザインを真似して描いたやつだった気がする。
もう忘れてる。


孔雀からインスピレーションを受けた作品



デザイン画の受賞ラッシュが始まり、

制作に明け暮れる。




全部辞めて逃げ出したい思いが
当時19.20歳の私の中に渦巻きながら
コンテスト用の服を作った。


10代らしい危うい精神の不安定さが
審査員にウケていただけだった。


書く度、なにかしら受賞した。



作品を見てもらった憧れのデザイナーに

「僕のアトリエに来たらいい」と言われ

承認欲求が一気に満たされた。

辛いことは
全部忘れた。

東京のファッションデザインアトリエで

最年少だったので、
みんなに大切にしてもらった。

色々お世話になるも



私は突然の逃亡……



森の中で幼い頃から育ってきた私には
都会の暮らしが
絶望的に合わなかった。




フランクフルトで、
山小屋に帰りたくて仕方が無く、
夢遊病になるハイジみたいになっていた。

デザイナーや周りのみんなは
すごくサポートしてくれた、

でも私の中でどうしても
残りたい気持ちが強かった。
しがみつきたかった。

「私を認めてくれる人(トップデザイナー)の近くにいたい」


「もっと私に期待してもらいたい」


「この人とは話が合う、
話していると1人じゃないと感じた」


だけど、
ここにいると息が詰まる。

みんな優しいのに
自分は優しさを私は信じきれなくて、
息がどんどん詰まる。

そんな葛藤が続いた。
その葛藤の中描いた作品はより評価された。


精神と肉体が分離してちぎれていきそうだった。



(後でこの事も気が向いたら書く)


この辺りから、
逃げたことへの罪悪感や色んな気持ちから
匿名や、ペンネームを毎回変えて、
漫画やエッセイに
取り憑かれたようにハマる。

読んでくれた編集さんから連絡が来ても、
全部無視してた闇の時代……


和装の後ろ向き女性ばかり描いてた時期もこの辺り
記号的な絵にはまりだす。たしか日本画を真似た。
幽霊の絵
赤、黒、白の画面構成にはまっていた。


続きは気が向いたら書くよーん


今日note終わり

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