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才能を磨くとは THE MOVIE

ネタバレ注意

 今日、以前より楽しみにしていた映画『沈黙のパレード』を鑑賞してきた。なにせ、このために有給を取り、映画館の予約可能時間前からサイトを開き待っていたぐらいだ。お陰で真正面の一番いい席を予約し鑑賞することが出来た。
感想を言いたい気持ちこそあったが、あまりネタバレを含まないように感想ではなく印象のみを一旦吐き出した。

 かつて再放送で観てハマった『ガリレオ』シリーズ。そこから文庫本でそれまで発売されていた分を買ったことで、収集癖とこだわりでハードカバーが出ても購入せず文庫化を待ちながらここまで読んできた。
そして、このnoteを知り以下のものを書いた。原作を読んだことがなく映画を観る予定の方は完全にネタバレなので鑑賞してから、既に読んでいる方は良ければ読んでみていただきたい。

受けた印象の数々

 映画はこれまで同様、原作に非常に忠実で余計な追加要素はない。とはいえキャラクターの構成はドラマ版の方なので厳密には忠実ではないのだが、どちらにせよ原作・ドラマからなる『ガリレオ』映画に茶々を入れる者は誰一人として無かったことには変わりない。
 しかし、これまでの映画2作品と違っていたのは、ツイートにも記したようにドラマ版の要素が含まれている点である。明確な違いはトリックの原理解明の際に『vs. ~知覚と快楽の螺旋~』が使用された点。

原作でもトリックの検証は行われておりシーンとして採用されるのは当然だが、ドラマ版においてその曲が使用されるのはイコール、トリックの原理が解明され自ずと犯人が決定される瞬間とも言える。もしかするとあの演出は犯人をミスリードさせるためのものだったのではないだろうか。

 ドラマ的、というよりドラマ版の要素として明らかなのは予告動画でもあるファミレス内や研究施設でのフェンス越しでの会話がそうだ。湯川からすれば非科学的な言動をする内海と、それに対して科学的に考察し反論する湯川とのやりとり。
これは岸谷とでは成立しないドラマ『ガリレオ』のコメディだ。湯川程論理的ではないがエリートという設定の岸谷は当初こそ同様の展開があるが、ドラマ終盤では湯川の着眼点を察して先に準備をするなど、この笑いを成立させることはできない。

ドラマ内において内海と岸谷の違いを感じられるのは、他人に迷惑をかける形で湯川がトリックを解明するシーンだ。
便宜上シリーズ毎に「1」「2」とすると、1の「予知る」ではER流体を用いたトリックを解明する際容疑者の勤務する化学工場内のエントランスで展示物を囲うガラスに書き出した。驚き声をかけようとする受付を制し、謝りながらも続けさせようと頼む内海。
2の「攪乱す」ではトリックを使用されたものの一命をとりとめた被害者の一人の自宅内で口紅を使い化粧台の鏡に書き出した。直前、行動を察した岸谷が自分のノートを差し出すも間に合わず怒りや悔しさ、申し訳無さを含めた言動をしている。
このように湯川に対する信用度には両者とも同じ程度ではあると思うが、信頼関係としては内海の方が上でありそういった面からもあのコメディを成立させられるのは内海以外ありえないのだ。

 更に、今回ドラマ的だと感じたのは容疑者≒関係者をストーリーとは関係ない演出で表現していた点。あのような表現はこれまでの映画では一切存在しなかった上に原作にも存在していない。一瞬違和感こそ感じたものの映画を鑑賞し終えた今は、このnotoを書きながら「あれは湯川の脳内を表現したものだったのではないか」と考えている。

情緒的というか映画的というか

 目に見えてハッキリと分かった違いは前述の通りではあるが、細かい点で言えば原作と映画ではボリュームを増やした部分と減らした部分が存在していたように感じる。

 増やしていると思った点は、取り調べのシーンや並木佐織との関係を描いたシーンである。前者を増やせば増やすほど原作以上に草薙の苦悩をより濃く描き出されることになる。後者も同様である。増やせば増やすほど、この沈黙のパレードの参加者の並木沙織への感情の寄せ方が印象付けられる。
だが、やはり後者は原作には及ばなかったと思う。2時間で参加者の愛情・献身を描き切るには時間が足りなすぎる。特に新倉夫妻と並木佐織との過去。増村の過去と蓮沼との関係の描写はもっと描いてほしかった。それが減らした部分であると考える。

 原作では新倉夫妻と並木佐織の出会いやレッスン、事件へつながることになる新倉留美が佐織に犯した過去の事件とそれによる蓮沼からの脅迫・凌辱。その過去の事件の描写も短く、並木佐織が原作よりお子様に映ってしまっていた。
また、増村に関しても本来は親密であり蓮沼の本音を導き出す重要な人物であるが冒頭、酒を飲む蓮沼を荷台に載せ仲良さげに自転車に乗るシーンがあった程度にとどまってしまっていた。湯川の言う、過去にしかない複雑なパズルの最後のピースであるにも関わらず。

2時間という時間ではインパクトのあるシーンにし、強く印象付けることでこれらを表現するしかなかったのかもしれない。だがやはり、『沈黙のパレード』の我が子や家族同然の人を守るための愛情・献身を描くにはどうしても個々人のそれを描かなければ感じさせることは困難だ。そのためなら3時間映画でも良かったのではと思う。

湯川の変遷

 『ガリレオ』映画において湯川と犯人との関係性はどんどん離れている。1作目の『容疑者Xの献身』では友人。2作目の『真夏の方程式』では旅館の主。今回は常連の店の関係者。しかし、事件への介入度はそれと反比例して高くなっている。今回に関しては草薙という親友の為でもあったが。
それはつまり「湯川も人としてアップデートされている」ということではないだろうか。

1作目で湯川は同じレベルで議論を交わせる友を失った。そして石神の意思に反して原因となった花村靖子に真実を明かし怒りではなく信念から自首を促した。
2作目は、事件に利用され直接の原因となってしまい幼いながらもそのことに薄っすらと気づいた恭平に真実自体は伝えず真実にたどり着くまでの成長期間を与えた。

そして今回、湯川は違う意味で親友を失うかもしれない場面に当たった。以前の湯川であれば捜査に関わることを避けていただろう。だが今回は違う。今回は正面から向き合い、胸ぐらを掴まれても動じなかった。そして、新倉留美にも真実こそ伝えたものの自首は促さなかった。もちろん、殺人と傷害という違いはあるが湯川としてはこちらから干渉し他人を変えることは出来ないことを理解したからなのではと思う。

パレード

 今作品は過去に比べ非常に多くの人物が深く関わっているため、原作ファンからすれば物足りないと感じる点はどうしても存在すると思う。だからこそこの作品の重要な点である愛情や献身に特化して描かれた、もう一つの『沈黙のパレード』とも言える。
一つのパレードを観ている時、全員の動きに注目することが不可能なように、映画という枠に収める以上、全員の動きではなく一つのパレードとして収めなければ作品にならない。その上で伝えるべきものが伝わっているのなら御の字ではないだろうか。

とはいえ、まだ理解しきれていない点があるはずだ。映画は自分の都合で巻き戻ったり速度を調整してくれはしない。おそらく自分は、あと最低1回は映画館に再度運ぶだろう。


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