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僕が今、福岡の話をしたいと思った理由。

僕が今、話をしたい人と、”福岡”をテーブルの真ん中に置いて、ただただ話をする。そんなことをやってみたいと思ったのには、少しだけ理由がある。


僕は、今でこそ東京と福岡の二拠点生活を送っているが(東京6:福岡4ぐらい)、僕と福岡が疎遠だった期間は長かった。

そんな僕と福岡との間を刻む時計の針が再び動き出したのは10年前の夏前のことだったと記憶している。

大学に通うために19歳で上京した僕と福岡との関係は、2年に一度ぐらいのペースで形式的に実家に顔を見せるためだけに帰るぐらいで、まさに時計の針は止まっていた。その針が思いもよらない形で動き出すこととなる。

父親の病の発覚。この年齢になると起きがちと言えば起きがちであるが、”便りのないのは良い便り”を地で行く親子関係だっただけに、正直、ふいをつかれた。だから、突然余命を聞かされた僕は、月に一回帰ると、父とはあと何回会えると頭の中で指折り数え、福岡に通い始めることにした。

福岡に通い始めると、ほどなく、福岡での仕事の声をかけてもらった。ひとつは、「どうせ福岡にいるんだったら」と福岡の文化発信のシンボルタワーだったIMSの広告キャンペーンの企画に参加しないかと電通九州の伊藤敬生さん(今は九州産業大学で教鞭を執られている)に誘っていただいた。そして、もうひとつは雑誌『カーサブルータス』から「せっかく福岡に通っているんだったら」とお話しをいただき、ムック本『新しい九州案内』を作らせていただいた。


月一度帰ると決めた僕にとっては、本当にありがたい申し出で、どちらの仕事もふたつ返事で始まった。しかし、ここで重大な問題が起こる。そこには福岡のことを全く知らない僕がいた。

やらせてくださいと言ったものの、福岡とは2年に一度の関係だった僕にとって、福岡は東京以上に知らない土地になっていたことにすぐに気づかされた。19歳までしかいなかった僕が美味しいお店を知っているはずはなく、疎遠だった故郷には仕事という観点で頼るべき人は誰もいなかった。

考えあぐねた僕はとにかく人に会いに出かけ、福岡のことを聞くことから始めてみることにした。父親とは1日のうち数時間しか会えなかったので(病に臥せていた彼の体力的な問題が大きかった)、それ以外の時間を人と会い、話す時間に当てることにした。

お会いした人は誰もが魅力的で、こちらが真剣に聞けば、真剣に答えてくれる。その繰り返しをしながら、どうにか福岡の輪郭を掴み、2つの仕事は良い形で終わった(ように思う)。

その2つの仕事をきっかけに東京でやっているような仕事も少しずつ福岡でもいただけるようになっていった。

6年前には父親のやっていたスナックの屋号をもらい「スナック日本號」というお店を出し、3年前には雑誌『ブルータス』の特集「福岡の正解」も作らせてもらい、10年前の自分からは考えられない速度で福岡が自分の生きる場所になっていった気がする。

時計の針が再び動き出して10年。人に会って話を聞いてみようと思ってから10年。10年ひと昔とはよく言ったもので、その間、福岡の街は劇的に様変わりしたように思う。

そして、今、福岡にも新しい風が吹いている。だから、あの頃に出会った人々とももう一度話をしてみたいし、もっと新しい人とも話をしてみたいと思うようになった。

これからも福岡で生きていくつもりなので、それはやらないといけないことだと、らしくもない勝手な使命感も抱き始めたりもしてしまっている。

それが少しだけの理由である。

ただ僕が話を聞くだけだと、話をしていただく方の貴重な時間を僕だけのものにしてしまうので、少しでもこの体験を多くの方にお裾分けできればと思い、この場とInstagramで書き残して、小さなメディアみたいなものを作ろうと思い至った。

僕は話を聞きたい人の中には、福岡で息づいている人だけでなく、福岡の外の人もいる。しかし、僕にとってはその誰もが福岡を思う時の何かのきっかけをくれる人だと思い、話を聞いていきたいと思う。

こんなことを自分からやるなんてことを言い出すのは分不相応な気がして、今はなんだか恥ずかしい気持ちでいっぱいである。が、その恥ずかしい気持ち以上に、いろいろな人と、”福岡”をテーブルの真ん中に置いて話をしてみたい気持ちでいっぱいである。


伊藤総研


 


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