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プチ共同討議 : 「他のギャル」を求めて

このツイートを基にしながら、いろいろな人たちと、
いろいろと話し合いました。
今回のnoteは、このツイートに注釈をつける、みたいな目的のもとで書かれています。

Aさん:……これはつまり、男性の自己同一化の対象が一義的でないということが問題なわけですよね?


B.G.V.:ええと?


Aさん:例えば女性の場合は、TWICEになりたい、乃木坂の〇〇になりたい…というように、まあなんでもいいんですけど、「こうなりたい」という対象が明確にある。80年代、90年代もそれがあったし、現代においてももちろんそれはある。でも一方で、男性の場合は、80〜90年代であれば、矢沢永吉になりたい、木村拓哉になりたいというのはあったし、ギャル男みたいなものもあったわけですよね。いわゆる、「イデオロギーとしての典型」というものがあった。だけれども現代においては、男性の側にはそれがないように思える。じゃあ、果たして櫻井翔やBTSになりたいのかって言えば、そこにはアイデンティファイできるようなイデアはないから、自己同一化を実現するということが難しいわけですよね。


B.G.V.:そうですね。


Aさん:だから、異性を欲望することによって形作られたイデオロギーを欲望するのではなくて、自らが自らを欲望するようにして、自らを実現する——。ということが、B.G.V.さんが主張したいことなわけですよね。


B.G.V.:まさしくそうですね。


Aさん:それであれば、私もよくわかりますね。


Bさん:え?そういうことなんですか?男性には同一化の対象が不在であるという話ではないんですか?


Aさん:つまりですね、不在であるから、自分がその不在の場を埋めるような存在になるしかないということなんです。自らをその不在の場に置くことで、自らを欲望するしかないんです。「BTSになりたい」と思った時に、別にBTSのコピーをするわけではなくて…。


B.G.V.:すなわち私が言いたいのは、現代の男性には、いわば「多様的なる同一化」を生み出すような存在がいないということなんです。それというのは「同一化」ではなくて、「自らへの同一化」を促すような存在。Bさんが言うように、不在の場に新たなシンボルを生み出したいというわけではないんです。ある人がポップ界に存在することによって、「自分だけの自分でありたい」と思わせるような感じなんです。大衆に対し、「Aという人物に同一化せよ」「この人みたいになれ」というメッセージを発するわけではなく、「この人に影響されることで、君だけの君でありなよ」ということを思わせるような存在。
 そのような存在の女性側の代表が、例えばBLACK PINKなどのガールクラッシュ系なわけですよね。BLACK PINKが好きな女性たちは、別にBLACK PINK自体になりたいわけじゃない。BLACK PINKがもたらした「ガールクラッシュ」の経験を通じ、エンパワーされることで、自分自身をより素敵な存在へと鍛錬していくことができるわけです。その最終形態にあるのが、現代の日本で言うところの「ギャルリバイバル」(?)だと私は考えていて。
 ですが現代において問題なのは、女性側には「ガールクラッシュ」はあるのに、男性側には「ボーイクラッシュ」はないということだと思うんですよね。
 ですがね、いざ「ボーイクラッシュ」というものを駆動させようにも、現状としてはどう駆動させていいのか全くわからないわけなんですよね。ほんとにどうしたらいいんですかね。


Aさん:これは簡単に見えて、すごく難しいですよね。例えば、もし私が他人から「君がなりたい君になりなよ」なんて言われたとしたら、すごく鬱陶しいなと思っちゃいます。そんなこと言われなくても、なりたいと思う存在にはなりたい。でも、実際には、それにはなれていないという現実がある。
 人間は生きていれば、そのうち何かの巡り合わせで自らのアイデンティティにリーチする瞬間というのがくる。その瞬間に至るまでは、「何かになりたいけどなれない」というコンプレックスを延々と抱えて生きていかなければならないわけですよね。


Bさん:いやでも、「何かになりたい」と言っている時点で、対象が明確なのではないでしょうか?


B.G.V.:いや、現代においては、人々が口にする「何かになりたい」の「何か」は明確にはなり得ないと思っているんです。その「何か」というのはすごくおぼろげなものでしかなく、まさしく「何者か」でしかない。これは主に熊代享が言ってると思いますけど、現代の若者は「何者かになりたい」という欲望を抱えながら、その欲望をどうしていいかわからず、よくわからない欲求不満を日々感じながら生きている。それに対する処世術(?)として、「何者かにならなくても、あんたはあんたでしょ、そのあんたを輝かせなよ」ということを、「ギャル男」ではない、別の「ギャル」的な固有名を看板にして言っていきたいわけなんですよね。
 「何者かになりたい」というのは同一化の問題系なわけでしょ。いま流行ってる自己啓発や、オンラインサロンというのは「何者かになりたい」という同一化の問題系を巧みに利用したビジネスなわけですよね。ある一人のカリスマを立てることで、それに対する同一化を促す。そうじゃなくて、「アンタは同一化しなくても自分で自分をエンパワーしていきなさいよ」ということを私は言っていきたいわけです。

Aさん:自らのアイデンティティを発見する、あるいはそれにリーチする瞬間というのは、「あ、自分がなりたいのは”何者か”ではなくて、”自分”だったんだ」と気づくことですよね。つまり、「自分の外部」へと向かっていこうとする力こそが、そのようなジレンマとして働く一方で、自らのアイデンティティにリーチする瞬間というのは、「自分の内部」へと向かっていったときなんですよね。そこにズレが生じていることが全ての元凶なわけですよね。


B.G.V.:まさしく、後藤明生の『挟み撃ち』のような…。「自分を意識する」というのは、「他人を意識する」(=他人に見られることを気にすること)ということにつながっているんだけど、その他人って言うのは結局のところ自分自身なんだと。だから、自意識過剰(=自分の外部に向かいすぎ)の人ほど自意識がないというわけですよね。


———2021年9月29日

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