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シゲヒコとシゲヒコについて

同じようにフローベールを足場にしていても、蓮實シゲヒコと外山シゲヒコとでは、対象をそれと直接には関係のないものを借りて解明しようとする行為(≒比喩)に対する評価が異なり、前シゲヒコはそれを「凡庸」と言って切り捨てるが、後シゲヒコは「真の比喩」(≠写実至上主義)があるとして、その可能性を探ろうとする。

外山のそれは、比喩というものを「悪しき比喩」(未消化な思考を比喩の形式を借りて合理化しようとするもの)と「真の比喩」(写実と相互補償的関係にあり、写実が到達しえぬところに参入する力を持つ)とに分け、真の比喩を探ろうとするもの。

そして、外山のシゲヒコはこの「真の比喩」に関してこれ以上詳細なことは述べていないが、考えるにこれは、九鬼周造の言うような、二者間の邂逅の奇跡を言っているのではないかと思う。”必然的に”結びつけられた,対象とその比喩という関係性ではなく、ある種"偶然的に"結びつけられたものでしかない,対象と比喩の関係性。すなわち、(写実主義による表現の個性化によって私的言語化=難解化してしまうという意味ではなく、なぜこの二者が結びつけられたのかが理解できないという意味で)「よくわからない」比喩こそが「真の比喩」なのではないか。

ただ偶然に出会ったものでしかない比喩を、そのままに受け取り、対象とともに添えること。俳諧性。

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