24/8/22 Complicit/complicityという言葉について考える

海外のインタビューなどを聞いていると、イスラエルとハマスの戦いについてパレスチナ支持を主張する人たちは、complicit /complicity=加担した/加担・共犯という言葉を語るのをよく耳にする。意図せず無自覚に、ある非難されるべき行動の存在を助長・支持・容認してしまっているということはあるだろう。この地球で起きていることが巡り巡って自分にも関わりのあることだなんて、普段の日常の中で意識することも多くはないかもしれない。ただこの数年の間に、たとえば、ロシアのウクライナ侵攻でサプライチェーンが寸断されて各地の需給バランスが崩れ、物流がさながらぐるぐると滞留し一時混乱したときに、私の中では、急にそれとわかる形で繋がっているんだということが、心拍数が上がって浮き上がる血管のように、浮き上がってきた。空路、海路、ついでに海底ケーブルにも意識が向けられた。そして、昨年のイスラエルとハマスの戦いでは、世界で起きている深刻な事態について、国内のメディアを見ているだけでは十分に知らされないでいることに強い危機感を覚えた。英語で情報をとりにいかなければならないことを切実に感じた。日本で日常を暮らしていたとしても、世界で起きておることに関心を払い、平和のために、言葉が古いかもしれないが一日一善、自分にできることがないだろうか考えることが大事だと思った。

complicitという言葉は、この繋がっていることを自覚させ、自分事として構造的に問題を考察させるなど、個々人に鋭い内省を促す言葉に思える。 

言葉は内面化して思考を生み出し、感覚を鋭敏にする。

自らを何かに加担しているとしたとき、そのつながりを考えさせて、そこからの離脱、行動変容へと促していく。

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