24/8/17NHKスペシャル“一億特攻”への道 〜隊員4000人 生と死の記録〜を見て

この時期になるとNHKスペシャルを見て戦争時代を偲ぶ。そして戦争をしてはならないと思いを新たにする。

1944年10月、フィリピンで初の特攻隊(特別攻撃隊)が出陣し、その後10か月あまりで、約4000人の兵士が出撃し戻らなかった。本籍などをたどると、日本国内だけでなく、朝鮮半島、台湾、樺太などの出身者もいたようだ。

2回目の出撃でアメリカ空母に対しひねりこみ、体当たりで急降下していく様子を見た。空母のうえで落ちた機体から遺体が引っ張り出される様子も見た。なんて痛ましい姿だろうか。

米国に対して明らかに戦力に劣り、敗色が強まる中、「一撃講和」といった終戦のための考えがあったようだ。米軍に一撃を加えてその余勢をかって有利な条件で講和をしようといった考えとのこと。番組にも出演されていたが、一ノ瀬俊也さんの解説は以下。

陸軍大将・東久邇宮稔彦王の一九四四年七月一一日の日記の「わが海軍は、なお最後の一戦をやる余力があるから、陸海軍の航空戦力を統合して、アメリカ軍に一撃を加え、その時機に和平交渉をするのがよい。これがためには、陸海軍統帥部の一元化と航空戦力の一元化を、急速に実施しなくてはならない」という記述である(東久邇稔彦『一皇族の戦争日記』)。

神風、神鷲、神、美談、美化、特攻熱

番組の中では伊藤忠商事の創業者である伊藤忠兵衛さんが特攻隊を受けて訓示を行なったというくだりが紹介されている。半ば気狂であって興奮状態での向上が必要・・内地の者も同じ精神で職務に当たるべきといった感じだ。一方で、一色次郎さんが「憤り」を感じた(本人たちがかわいそうだと)ということも紹介されていた。物理的力で劣っても精神力で勝ることができるといった考え。特攻隊の精神が国民全体に内面化されていく。

「一億特攻」

サイパン陥落後、最初に特攻隊の出撃を命じたという大西瀧治郎中将は「統率の外道」と語った。番組の中ではこれ以上紹介はされなかったが、番組に出演していた神立尚紀さんは、こちらの記事を書いている。ここにも一億特攻は繋がっている。

その死は壮絶だ。

国民に戦争終結を告げる天皇の「玉音」が放送された翌日、昭和20(1945)年8月16日未明、ひとりの海軍の将官が割腹し、自決をとげた。

最後まで徹底抗戦を叫び続けたが、遺された遺書には、軽挙を戒め、特攻隊員と遺族に謝罪し、青壮年に後事を託し、世界平和を願う言葉が綴られていた。

特攻隊志願に関しても、「超熱望」「熱望」「望」「否」といった意向調査が行われたことも番組では紹介されていた。「熱望」としたものの出撃を免れた土方敏夫さん。神立尚紀さんによると、残酷ではあるが、人選はこの志望の程度ではなくて、成績であったと。土方さんは成績優秀者であったために恐らく特攻隊としての出撃を免れたものと思われるとのことだった。

いつかこの「海軍予備学生零戦空戦記: ある十三期予備学生の太平洋戦争 (光人社ノンフィクション文庫 720) 文庫 – 2011/12/29」を読みたい。

多くの特攻隊員を見送った角田和男さんについても、神立さんは書いている。



皆、何かの歯車になって、日常の営みに組み込まれていく(動員されていく)。その流れの中でそのとき止まれるだろうか。同じ道を歩まないことができるだろうか。

アメリカの学生は、イスラエルとパレスチナの戦争に対して、日常を止めるべく戦っていた。Business as usualに抗すること、止まることの大切さを分かって行動していた。今も。




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