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【創作大賞2024】パラサイト/ブランク 14話

14話「実験」



時刻は12時30分を過ぎていた。体中に寒気を感じた羊子は、霧原と朱莉が入って行った廃墟と化した映画館に向かう。霧原から見張りを頼まれてはいたが、もう限界だ。外は寒すぎる。

(中が少しでも暖かいといいな……。霧原さん、すみません!)

羊子は両手に息を吹きかけて小刻みにこすり合わせる。映画館のドアを押し開けると中は空調設備が管理され、暖房がきいていた。

暖風が羊子の眉の下まで伸ばした薄紫色の前髪と右耳のあたりへ唯一長く垂らした髪を揺らしていく。

(そうだ、一応霧原さんたちを探さないと)

羊子がきょろきょろと周りを見回していると、横から低い声がした。

「あれ、もしかしてお客さん?何かお探しですか」

羊子がはっとして声のほうを向くと、まとまって並んだ待合のイスに黒のハンチング帽を被り、黒地に白のストライプのシャツを着た男がこちらを見ている。右目に海賊映画で見かけそうな黒色の眼帯をしている。

「あ、あの……。ここに霧原って人、来ませんでしたか?」
「ああ。その人ならうちの店長に用があるとかで、髪の白いお嬢さんと一緒に奥の劇場シアターに入って行きましたよ」

男はそう言って、待合の奥のほうにある「劇場入り口/出口」と書かれたプレートを指さす。

「そうですか。あ、あのありがとうございます!」
「いえ、どういたしまして。もし何かあれば、また言ってくださいね」

男がニコッと微笑んだ。人懐っこい笑顔に羊子は軽く会釈し、教えられた劇場のほうに向かった。



「––––ねえ、ねえちょっと起きてよ眞ちゃん‼︎ あたしに何か用があったんでしょ?」

霧原はすぐ耳元で聞こえた声に、夢の中を漂っていた意識が瞬時に覚醒する。

『……そんなに大きな声出さなくても聞こえてるよ店長。随分待ったから、そろそろ持ってきた品物の勘定をしてくれないかね?外で連れを待たせているんだ』

霧原はできるだけ今まで待たされた分の怒りを抑えながら話す。

『え?品物って……あなた何を持ってきたの?』

店長は不思議そうに霧原を見つめる。

『……肉だ。人間の肉を2人分。まだ腐敗はしてないはずだから、今日か明日のうちに食べたほうがいい』
「つまり……あなたもしかして殺人をしたんじゃないでしょうね?違うわよね」
『……違うね。私じゃない』

霧原は店長にまじまじと見つめられて目をそらす。この人はどうも苦手だ。

「ああ……よかった!じゃあすぐに鑑定するわね」

店長はそう言うと霧原と座席で眠っている朱莉を置き去りにして、さっさと劇場を出て行ってしまった。

(……まったく。人の話を聞かないひとだ)

霧原は座席で寝ている朱莉の肩を少し強めに揺さぶる。

『……おい、そろそろ起きろ。待合に戻るぞ』
『ん……ああ悪い、すぐ起きる……』

霧原に何度か肩を揺すられた朱莉が両手を上にあげて、猫のように背中をそらせて大きく伸びをする。

『……あとは店長に持ってきた肉の鑑定をしてもらって、代金を払えばいいだけだ』
『そのあとは?』
『今日は解散だ。いろいろあったからな……私も支部に帰って休みたい』

霧原が朱莉を伴って座席を立ち、細い通路を劇場の両開きのドアに向かって進む。取り出した携帯電話のディスプレイ画面に表示された時刻は午前1時半。後ろを振り返った時に見えたスクリーンには「THE END(終わり)」の文字が浮かんでいた。



「あ……霧原さん!」

劇場に入ろうとしていた羊子は、通路奥から歩いてくる霧原と朱莉の姿を見つけて手を振る。

『……柴崎くん?君なぜここにいるんだね。外の見張りはどうした?』
「あ……それなんですけど、すみません外の風が冷たくて。あったまろうと思ってこっちに来ちゃいました」

霧原の怪訝そうな表情に羊子は申し訳なさそうに頭を下げる。時折こすり合わせる両手は寒さゆえか赤くなっている。

『……そうか。なら仕方ないな、今からそこの売店で品物の鑑定と支払いを済ませるから近くのイスに座っているといい』
「はい。すみません……」

羊子はそう言って霧原の指示通り、待合のイスの空いている席(今周りに座っているのはさっきのハンチング帽の男性と暗い青色のワンピースの女性だ)に座る。霧原は朱莉と一緒に劇場出入り口付近にあるカウンター兼売店に歩いて行く。

「ねえ。あのお嬢さんって誰、眞ちゃん」

霧原がカウンターに近づくなり、立っていた店長の雨野が待合のイスに座っている羊子を見ながら話しかけてくる。

『……彼女は同じ支部の新人職員で柴崎といいます。……それで鑑定結果は?』
「ええと……そうね、圭にさっきバックヤードで見せてもらったけれど、保存状態は良好。腐りもなし。評価はBね」
『なぜ?』
「切り方がかなり大雑把。解体業者ならもう少しきれいにやると思うけど。あとはそうね……内臓が体内に残りっぱなしだったのがマイナスかしら……次に持ち込む時は別にしてほしいわね。摘出作業に時間かかるし」

物騒なワードが次々に雨野の口から飛び出す。背後の朱莉の表情が再び引きつる。

『……わかった。次からはそうしよう、代金は?』
「2人分で……さっきの状態を加味して5000円かしら」

雨野にそう言われ、霧原は白衣の裾ポケットから黒い財布を取り出し、中から5000円札を出してカウンターの上に置く。雨野は素早く紙幣を手に取り、付けているPマートのロゴがついた緑色のエプロンのポケットへくるくると丸めて入れる。

「……はい。たしかに受け取ったわ、ありがとう」
『ああ、では私は帰るよ。そうだ店長ひとつ聞きたいことがある……白いマントに目と数字の十三のマークを入れた髪の長い男を知らないかね』
「え?いえ……知らないわ。あ、でもうちの圭がそういう変な噂詳しいから後から聞き出してメールするわね」

霧原と雨野は少しずつ声を小さくして話す。

『……ありがとう、頼むよ』
「またのお越しをお待ちしています。じゃあ、またね眞ちゃん」

霧原がカウンター奥から手を振る雨野に礼を言うと、朱莉のほうに「ついてこい」というように革手袋をはめていない右手で指示する。

「あ、お会計終わりましたか?」

羊子が霧原と朱莉に気づいてイスから立ち上がる。

『……ああ。店長の趣味のせいでだいぶ時間をつぶしたがね。さて、いい加減に支部へ帰ろうか……そういえば君はどうする?』

霧原は映画館の出口のドア付近で、後ろにいる朱莉を振り返ってたずねる。

『……え?ああえっと私は–––家に帰るよ』
『……もう誰もいない家にかね?』
『そ、それは……。でも、両親を殺したのは私だし……』

朱莉はうつむく。霧原は続けて言う。

『確かに。けれどそれはアイツに脅されてやったことだろう?……なにも君のせいじゃない。それから君がやったという証拠は全部、たった今店長に売り渡した。これで一件落着だ』
『……で、でもそれじゃ何にも変わらないだろ』
『そう、その通り。君が両親を殺したという事実は……ずっと残る。君が生きているかぎりは』
『じゃあ、私はどうすりゃいいんだよ……。このまま死ねってか?』

朱莉は頭をかかえる。

『……それは君の自由だ。だが、お勧めはしない。今夜みたいにパラサイトになった体を傷つけるには……相当な手間がかかる。なにせ、傷口が何もしなくても勝手に塞がるからね』

霧原はそう言いながら朱莉に引っ掻かれた自分の右ほおに革手袋をした手で触れる。4本の傷口はすっかり塞がり緑色のミミズ腫れ程度になっていた。

『…………なんだよ。それならどうしようもねえじゃねえか。なんだよそれ……』

朱莉は自分の白く変色した髪を両方の手でぐしゃぐしゃにしてかき上げる。白い瞳がきつく霧原の顔を睨んでいる。

『……おっと、私はただ事実を述べているだけだ。そんなに怖い顔をしなくてもいいだろう? ……死ねないのならいっそのこと1度《死んだつもりで生きればいい》じゃないか。私は……そうしたよ』
『……は?いや、オッサンはそうかもしれないけどさ……私は違うんだよ。そんなに簡単に決められないって』

朱莉は頭をかかえたままで言う。そこに霧原が歩み寄って彼女の肩に手を置き、耳元でこう囁く。

『……決めるのは何も今じゃなくてもいいんだ。今日はひとまず一緒に支部へ帰ろう。部屋はいくらでも空いてる、どうかね?』
『なあ……オッサン、なんで私にさ、そこまで言ってくれるの?』

朱莉が顔を上げる。目が充血して薄く緑色になり、涙が溜まっている。

『それは…………君が亡くなった私の娘によく似ているからだ。さあ、行こう』

霧原は朱莉の手を右手で引いて立たせ、出入り口のドアを開けた。



時刻は午前2時。映画館の前でタクシーを呼び、霧原と羊子と朱莉は中に乗りこむ。羊子が運転手に目的地の宵ヶ沼支部が入っている廃ビルを指定してほっと一息つくと、スーツの裾ポケットがもぞもぞと動きパラサイトくんが顔を出す。

『……3人ともお疲れ。やっと支部に帰れるね』

霧原から人前に出るなと黒河宅で厳しく言われたためか、声が小さい。

「……うん、そうね。私も早く帰って部屋のベッドにダイブしたい。あと温かいお茶も飲みたいし」

そう話す羊子はタクシーの窓の外を流れる景色を見ながら、どこか遠い目をしている。霧原は羊子との間に朱莉を挟んで、反対側の窓の外へ視線を向けている。

『……なあ、アンタの娘さんってなんで死んだの?』

不意に朱莉が小さな声でつぶやき、霧原のほうに顔を向ける。

『それは……今ここですぐに話せる話じゃない。支部に戻ったら私の研究室においで、全て話そう』
『……そう。わかった』

朱莉はそれだけ言うと再びうなだれる。それからは3人ともほとんど喋らず黙ったまま、時間だけが過ぎていく。タクシーの窓の外を流れる宵ヶ沼市内の景色はまだ夜の中だ。夜明けまではあと4時間はある。



宵ヶ沼支部の入る廃ビルの前で羊子たちが下りると、タクシーはあっという間に走り去っていった。羊子はいつものようにお釣りは受け取らず、もらった領収書だけを肩にかけたバッグにしまう。

「……やっと着いた。早く中に入りましょう霧原さん」

羊子がうながすと、霧原はその場で立ち止まっている朱莉の肩を軽く叩いてから『今行く』と言って廃ビルの出入り口に歩いて向かう。朱莉も少し遅れてそれに続いた。



どのフロアも消灯され、真っ暗になった宵ヶ沼支部の中を羊子と霧原、朱莉がそれぞれの部屋に向かって進んでいく。

「……じゃあ霧原さん、私はこのまま部屋に戻ります。何かあったら携帯に連絡してください」

羊子はそう言って、通路の1番奥にある「柴崎」と書かれたネームプレートのある部屋のドアを開け、あくびをしながら入って行く。ここの支部で働く職員は皆、実家から離れて生活をしている。羊子もそのうちの1人だ。

『……ああ、おやすみ柴崎くん』
「はい……また明日です」

霧原は閉まる羊子の部屋のドアを見送ると、後ろの朱莉を振り返りついてくるように合図した。



『……入って。だいぶ散らかっているが、座れる場所くらいはあるから』

霧原が羊子の部屋からひとつ奥の通路にある研究室のドアを開け、朱莉を中へ導く。書類の紙や本が床に散らばり、ベッドのそばの壁には大きな爪でつけたような傷が何本かついてへこんでいる。

『……お邪魔、します』
『どうぞ。ああ、ドアは閉めてほしい……鍵もかけて』

霧原は朱莉に研究室のドアノブをロックさせ、傷跡がついた壁のそばのベッドをすすめて座らせる。

『……そんなに大事な話なの?』
『……人に聞かれたくないからね』
『ふうん……。じゃあ早速聞くけど、なんで娘さん死んだの?』

朱莉は膝に両肘をついて胸の前で組む。霧原は直球の質問にため息をつく。

『……君なあ、もう少し遠慮というものはないのかね?まあ……いい。先に答えると約束したのは私だからね』

霧原もパソコンを乗せた机の黒いワーキングチェアに座り、右肘を膝に乗せる。

『娘が死んだ理由は……私が殺したからだ。妻も一緒に』
『えっ。それは……オッサンがやったのか?それともやっぱりアイツにやらされたの……?』
『……私はやってない。いや、娘と妻を手にかけたのは確かに私だがそれは……あの男に「やれ」と強制されたからだ。誰が……。誰が自分の可愛い娘と妻を自ら殺そうと思うんだ⁈ なあ……教えてくれ』

霧原は一気にそこまで言い切って、顔を伏せて頭をかかえる。

『……そうだよな。オッサンて、とてもそんなことする奴には見えないし。なんかごめん、疑ったりして』
『……いや、いいんだ。それが正常な反応だから』

霧原がそう言ったところで白衣の裾ポケットに入れていた携帯電話が震えた。同時に机の上のパソコンにもメールの通知が入る。

(……誰だこんな時間に)

霧原は朱莉との会話を一旦中断して、パソコンに送られてきたメールから確認をする。送り主はPマートの片瀬圭という少年からだった。内容はこうだ。

①店長から聞かれた「白いマントを着た髪の長い男」についてインターネット上を調べてみたが、それらしき人物に関する情報はヒットしなかったこと

②現在、自分がよく使うオカルト系掲示板に書きこみをしたので何か情報が得られたらすぐに連絡すること

③明日中に店長特製のパイを霧原の研究室宛てに送ること


(パイ?……まさかな)

霧原は脳裏に一瞬よぎった嫌なイメージを頭を振ってかき消す。人肉のパイなんて映画の中だけでいい。

『メールか、誰から?』

朱莉がベッドの上であくびをしながら、パソコンの画面と携帯電話のディスプレイを交互に見ている霧原に聞いてくる。

『……さっきまでいたPマートの店員からだ。調べたいことができたから、情報の提供を頼んできた』
『調べたいこと?』
『……例の白いマントの男だよ。私と君は奴に会ったことがある上に顔も知ってる。けれど……情報提供を頼んだ店員がインターネット上で検索をかけても何も引っかからなかったらしい』と霧原。

『……それは単に、アイツに関する特徴が少なかったとか噂になるほど目立った行動をしていなかったとか、そういうことなんじゃ?』と朱莉。

『うん、普通はそう考えるだろうね。もしかすると《《意図的》》に情報を隠している可能性だってある』
『……だとしたら、簡単には出てこないよな。どうするの?』

朱莉はそこで眠気に負けてきたのか、ごろんとベッドマットに横になり灰色の薄い毛布を自分のほうに手繰り寄せる。

『……それは–––そうだな。まずはPマートの店員からの連絡を待って、その結果次第で裏に詳しい情報屋かハッカーを頼るしかないだろうな。君、そういう友人はいるかね?』

霧原はワーキングチェアに座り右手で頬杖をついた姿勢のまま、朱莉に質問を投げかける。

『いや、いないよそんなヤツ。ごめん……そろそろ本当に眠くなってきたから寝てもいい?』
『……ああ、もちろんいいとも。ゆっくり休むといい』
『……うん、そうする。おやすみ……』

朱莉はそう言うと、枕がわりに置いた黒いクッションに頭を乗せて寝息をたて始めた。霧原はその様子をしばらくの間愛おしそうな目で見つめていたが、ふと我に返り椅子から立ち上がる。

(夜明けまであと3時間か……。それなら大丈夫だな)

霧原は開かれたパソコン画面に表示された時刻を確認し、机から理科の授業などで使う目盛のついたビーカーと小さめの駒込《こまごめ》ピペットを片方づつ手に持ち、研究室のドアを靴先で押し開けて外にある洗面所に向かう。

(……今夜は前回より少し量を多めにしてみるか)

霧原は洗面所の鏡の前でビーカーとピペットを蛇口の下に置き、左手にはめた革手袋を外し、白衣の胸ポケットにしまう。おもむろに左手の緑色の手首に右手の鋭い鉤爪を突き立てると、強めに横へ引いた。

(……痛ッ)

歯を食いしばるのと同時に、傷をつけたあたりから少しずつ緑色の血液が滲み出し、真っ白な洗面台を濡らす。霧原はすぐにビーカーの上へ左手首を移動させ、流れ出る血を受けていく。ビーカーに半分ほど血が溜まったところで手首を避け、今着ている黒いシャツの襟にしていた緑色のネクタイを包帯の代わりにしてぐるぐると巻いて止血する。

(あとは……これを少しだけ水で薄めればいい)

霧原は右手で蛇口をひねるとビーカーへ溜めた半分の血液に、慎重にさらにもう半分の水を注いだ。ピペットの先でかき混ぜると緑色の絵の具を薄めた時に似ている。霧原は自分の血液を希釈したものを入れたビーカーとピペットを手に、ひと通路隣の羊子の部屋に向かった。



時刻は午前3時30分を過ぎようとしていた。羊子の部屋のベッドと離れて置かれた机には、スーツの裾ポケットから這《は》い出してきていたパラサイトくんが自分の背丈よりも大きな黒色のマグカップを両手に持ち、半分以上残ったコーヒーを啜っているところであった。

(……?)

パラサイトくんはふと誰かの視線を感じ、部屋のドアのほうを見る。研究室にいたはずの霧原が、いつの間にか音もなくドアを開けて入りこんで来ていた。

『き、キリハラ……?なんでここにいるの⁇』

パラサイトくんが慌ててコーヒーの入ったマグカップを隠そうとすると、即座にしいっと霧原が唇に人差し指をあてて制した。

『……頼むから大きな音と声は出すな。柴崎くんが起きたら困る』
『……へ?なんで?』きょとんとするパラサイトくん。その反応に霧原は自分が今手にしているビーカーとピペットを目の前に差し出す。

『……ああ〜なんだ《《アレ》》かあ。今回もやるの?』と納得するパラサイトくん。

『……ああ。一応実験だからね、継続させないと意味がない。効果が出るかはまだわからないが……適応する可能性は《《ゼロでないこと》》を祈るよ』

霧原はそう言うと羊子の眠っているベッドに素早く近づき、机の上に置いたビーカーの中の薄めた血液にピペットの先を入れて吸い出す。それから目線でパラサイトくんに「こっちに早くこい」と合図する。

『……いいか。私がこのビーカーの中の血液を全て流しこむまで、彼女の口を開かせておけよ』
『りょーかい』

パラサイトくんは羊子のくるまっている掛け布団をそっとよじ登って、顎のあたりまで行きスタンバイする。

『……準備はできたか?』
『いつでもどうぞ』

霧原はその言葉を合図に左手で羊子の上半身を支えて起こし、血液を吸わせたピペットを羊子の口元に近づける。パラサイトくんが素早く両手で唇を開いて、閉じた歯列をこじ開ける。

それも起こさないように、あくまで優しくだ。早業のような展開に霧原はうなずくと、ピペット内の血液をゴムの持ち手部分を指先で押してゆっくりと確実に口の中に流しこんでいく。

『……一旦飲ませろ。吐き出したら意味がない』
『OK ……ヨーコ、今口の中にあるものを飲みこんで』

パラサイトくんが羊子の耳元で何回か囁く。すると喉がぐっと上下に動いた。

『……よし。次だ』

その様子を見た霧原が再び机の上のビーカーから血液を吸い出す。それを3〜4回ほど繰り返した後、ビーカーの中身がなくなった。

『……もういい。終わった』

霧原は額にかいているはずのない汗を白衣の袖口で拭く。

『……え、ほんと⁇ よ、よかった。ヨーコが起きないかハラハラしちゃった』

パラサイトくんは羊子の顔から離れて、毛布の上にパンダのように両足を開いて座りこむ。

『それなら心配ない。柴崎くんは一度寝たら何があっても朝まで起きないタイプだからね……。きっと今のことも夢だと思ってくれるさ』
『……うーん、それならいいけど。あ、そうだキリハラの部屋でコーヒー飲んでいい?まだ飲みかけだったんだ』

パラサイトくんはちらりと羊子を見てから、小さな声のままそう提案する。

『……ああ、いいとも。実験を手伝ってくれたついでに喫茶店「赤いろうそく」でテイクアウトしていた卵サンドもつけよう。机の上のマグカップは自分で持ってこれるかね?』

パラサイトくんは霧原にこくこくと頭を振ってうなずく。心なしかいつもは灰色の瞼が半分下りている楕円形を縦に間をあけて並べたような薄い黄緑色の瞳がキラキラと輝いているように見える。

『えっ、おいらがそれ食べちゃっていいの?キリハラは……食べないの?』

パラサイトくんの目が霧原が緑色のネクタイをぐるぐる巻きにして上から右手で押さえている左手首に注がれる。

『……そうだな。さっきの実験で少し血を失っているから、君と一緒に私も何か食べるか』

霧原はそう言うと、小さくあくびをしながら羊子の部屋のドアを右手で静かに押し開けて廊下に出て行く。黒いマグカップを頭の上に捧げ持ったパラサイトくんが机から飛び下り、彼のあとを追ってドアの隙間に飛びこむ。

『……大丈夫か?』
『うん。マグカップは割れてないから平気、キリハラ早く行こう』

霧原はパラサイトくんが自分の背丈よりもはるかに大きなマグカップを持てているという事実に、一瞬疑問を感じたが考えないことにした。やはりパラサイトは謎が多すぎる。

『……ああ』



午前6時。霧原の研究室の天井に近いあたりに唯一ついた長方形の窓から朝日が差しこんできた。朝日に照らされた机の上には薄茶色のパン屑の散った皿とフォークが2つ、マグカップが2つ置かれたままだ。

黒のワーキングチェアには霧原が座ったまま机に突っ伏しており、すぐそばにパラサイトくんが座ったままの態勢で目を閉じていた。

『んん、ん?もう朝……?』

パラサイトくんがぱちりと目を開け、黄緑色の瞳を机の上の窓に向ける。まだ眠っている霧原の肩へよじ登り、勢いをつけて天井の窓枠まで慣れた様子でジャンプする。今日の外はよく晴れていて、空が吸いこまれそうなほどに青い。

『……キリハラ、起きて。朝だよ』

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