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【初告白】 私の疑念ーー仙台の八木山の知的障害者施設・亀亭園の火災 1956年 @宮城県

私は 最初から 疑問に思っていた。 大きな火事の後の、話がトントン進みすぎではないか?    仙台で  2018年からスタートした、優生保護法裁判を、私は 2年ほど遅れて知り、自分なりに 細々と 調べてきました。
しかし、この1956年(昭和31)からの【展開が早すぎる?】というのは  あくまで、単なる  私の(勘)であり、もちろん 「印象」レベルの話なのですが。。
  そして、深呼吸をしてから 視点を落ち着かせ、変えて見るならば、、、、まだ 曖昧なのものも含めて、私が検索などを通して得た 資料・情報などは、、あの困難な時代の周辺と、そして  日本国や宮城県の激動の世情などを理解すための、小さな 一助になると思うのです。
今後、 研究などが 進んでいくことでしょう。
ひとつ一つ、データ・文書を 並べていく丁寧な作業は、宮城や仙台の過去と未来を 大きく照らし、導いてくれることでしょう。  若い人々の力にも期待しています。
→→(★ 記事の 下につづく)

・・・ここで、参考にした引用元の一部は、下に書きました・・・

①◆1955年(昭和30)10月18日:現・大崎市 松山事件←【🔴 冤罪】 
②◆1956年(昭和31)12月11日:亀亭園の火事(原因 〜 放火で学校を焼いた履歴をもつ軽度者による火遊び)
③◆1957年(昭和32)2月12日:精神薄弱児福祉協会の設立総会→精神薄弱児施設・小松島学園の創設へ。 (仙台市にある旅館の白萩荘に、宮城県内から教育・福祉関係者ら200人あまりが集まった。)

④ 🔲  1957年(昭和32)11月13日:川内と苦竹の両キャンプの土地が返還され、宮城県内のアメリカ軍基地はすべて姿を消す。
(→→→ アメリカ兵の相手をする女性達のための、中絶などのための愛宕橋診療所??も、この時期に役割の主柱を失っていたのか??
→→→そのような不妊手術や中絶手術の経済的 また保健的循環を保つために、
〜 優生手術の件数の増大
〜 愛宕橋診療所の強化
〜 小松島学園の創設 が、なされた??
? まだまだ、これらも 皆  私の推測です。)

◎  上記の4件の間隔は、とても短い。そして、亀亭園の火事の後から  200人の要職の人々を集める  精神薄弱児福祉協会の「設立総会」の間隔も、極めて短い と 私は思います。
(もちろん、福祉施設の回復  そして 大きな改善のために 関係者の努力が注入された賜物であったーーとも想像しますが、。)

🔴 私の疑念・・・亀亭園の火災の原因は別にあり、「権力による放火殺人事件」だったのではないだろうか?
→→→ 最終的に、小松島学園や他の施設 等々も 使い、宮城県は 1,406人への強制優生手術まで到達させたのだ。
この 「権力による放火」を当てはめた方が、スムースに【歴史年表の流れ】の辻褄が合うように思えます。

◎  当時、まさに  日本や宮城・仙台は 激動の時代であった。
◎  だが  しかし、、年月の経過の後になっても、優生保護法政策については、その勢いを宮城県も日本国全体も、、高度経済成長などで  多くの日本人が豊かな時代へと変貌を遂げても尚、停止させなかった!
なぜ か?。。  システム的にも、法的にも、お金を得る人々までの流れの仕組みを変えなかった・変えることを「選ばなかった」からではないか?。  とても長い間、楽に、安易に、お金も回る、、日常となったシステムが続いた場合、それは簡単には止められないだろう。
   優生保護法政策は、そもそも 「日本国憲法」とはサカサマの法律・政策であった。 いわゆる「憲法違反」、 「違憲」であったのにもかかわらず、優生政策を 直ちに止めるべき【経済的大国】の地位へ到達しても、 止めなかった責任は いったい 誰にあるのか?。これは本当に、広く 深い問題なのだ。
  そして、その 総括を早く、とにかく急がなければならない!
現在 高齢となっている優生手術による被害者たちが  哀れすぎる。 一人ずつ他界しているのだ。   無念の今日と、復讐すべき 明日は、まさに  日本国民の内側の腹の中の問題なのだ。  一日一日と、。
  この日本国に住む みなさんも、宮城県の私達も、ひじょうに遅すぎる!
わたしたちの罪は  さらに 重なっている。さらに 深まっています。

《参 考》

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https://tansajp.org/investigativejournal/1183/
 Tansa 強制不妊 「精神薄弱児」施設の火災 連載レポート(4)
2018年03月01日5時00分 加地紗弥香

ーーーーー
【宮城教育大学 図書館】にも 所蔵
『宮城県における精神薄弱児施設の誕生と分類収容
ー亀亭園・「愛の十万人(県民)運動」, そして小松島学園・ほたる学園ー』
清水貞夫(宮城教育大学名誉教授)、相澤雅文(京都教育大学)

ーーーーー
https://photo-sendai.com/search/decisions/kensaku/keywords:占領軍/dispnum:50
仙台よみとき用語年表
→→進駐軍(米軍) 概説 1945年(S20)9月~1957年(S32)11月
→→米軍が仙台および周辺に進駐・駐留したのは、S20年9月~S32年11月
<全キャンプ返還> * 1957年(S32)11月13日、川内と苦竹の両キャンプの土地が返還され、宮城県内の米軍基地はすべて姿を消す

→→(続)

書いたのもは、あくまで、私の ”勘” の部分も含まれています。

まだ 曖昧なのものも含め、資料・情報などから学んできたことは、その時代の周辺、そして 日本国や宮城県の、歴史的な激動の世情や流れを理解するための一助になる、と思います。

情報を得ながら、私の知ったことは、『日本国はひどい。宮城県もひどい。
あまりにも ひどすぎる』と いうことです。
もしも、例えば、【弱い者を更に不幸にするならば、社会的強者や中流の人々の幸福が増す】という仕組みが、あったと仮定しても、、、強者たちの幸福が増大する ”幅”は、果たして  どれほどのものなのでしょう?。   弱者が  さらなる不幸に転落していく”幅”と比較して、、それでは 吊り合いが 取れない!!
弱者の元へ  ささやかな物やお金を与えたとしても、 日本全土は沈没しない、消えない!。 また同時に、強者や権力者は  ひどい不幸には襲われない。  また  そういう思いやりの心との引き換えによって、地球が滅びてしまうことはないと、思うのです。

そして、何より、、
私には、引き寄せられている、戦争の時代からの、別な関心事も存在する。

ーーー 私の父(ひとりの男)が 生きてきた時代であり、
ーーー また、、あの昭和の戦争の最期に、オホーツクの海を渡り  本土へ逃げ帰ってきた  私の母(ひとりの少女)と その家族の歴史という、私の 未知の宇宙です。
戦争を含む 父と母の世代の歴史は、とてもつらくて  そして難しいものですが、それらと同時に  多くの事柄にも、私自身と私の世代とが  つながっていく、つながって行こうとする【回帰】の作業なのでしょう。

焼け野原からはじまった、戦後の悲しい物語は、
わたしと  今を生き抜こうとする人々とを、いったい 何処に連れて行くのでしょう。
今日の 宮城県の多くの庶民を、どこへ 導いていくのか。
わたしの故郷・福島県の ひとり一人の 庶民を、どこまで?
そして、福島県の浜通り地区で   当時  若かった  キリスト教徒の  希望を駆ける 男女 一組を、どこへ?
いわき市を 切り拓いた、障害者施設を どこ  へ?


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