第80回忘バワンドロライ「(笑)」

「千石さん、教えていただいてよろしいでしょうか?」

 帝徳高校、野球部寮の談話室で野球部ノートをめくっていた国都が声をあげた。談話室のテーブルには「野球部ノート」と呼ばれているノートがある。昔は監督やコーチからの連絡に使われていたらしいが、今では皆が思い思いに絵を描いたりやマンガの感想を呟く落書き帳になっている。
「これはどういう意味でしょうか?」
 国都の指先を見ると“サインコサイン盗塁サイン(笑)”と汚い字で書かれていた。
「サインコサインについてなら教科書を読むがよい」
「三角関数と盗塁サインに関連性がないことはわかるのですが、その後の(笑)とは何でしょうか」
「は?」
「わかりました。これは“は”という意味なんですね」
「いや違うぞ国都、今のは俺の間の抜けた返答だ。日常のことはセイ先生に聞くのがいいんじゃないか?」
「セイ先生?」
「イカク・セイ先生こと益村だ、野球以外のことは全部アイツが担当だろう」
「申し訳ありません、益村さんはもう部屋に帰られているようなので」
「ならば教えてやろう。国都、オマエは顔文字や絵文字を知っているな」
「はい顔文字なら知っています。寮に入るまでは祖父とメールをしていましたから」
「国都はおじいちゃんとメールするのだな」
「今は縦書きの思考なので表現できませんが、このような絵文字を送り合っていました」
 国都は近くにあったメモ帳に絵文字を書いてみせた。
「パソコン通信時代の絵文字ではないか、ルーン文字だな」「それほどの歴史はないと思います」
 国都を無視して千石が続ける。
「国都がおじいちゃんとメールしていた絵文字を漢字に変化させたものが(笑)だ」
「そういうことでしたか。なるほど、よくわかりました」
「絵文字と一緒で(笑)のほかに(泣)や(怒)などもあるぞ、どれもまったく覚える必要はない」
 そして「自分が一番よく使う文字は(虚)だ」という千石に「イメージ通りです、ありがとうございました」と礼を伝え自室に戻った。

 布団に入ると甲子園のグラウンドから見た景色が脳裏に浮かぶ。
 目標だった甲子園で大敗を喫した僕たちに、監督は「素晴らしい戦いだった」と言葉をかけてくれた。そして「君たちのこれまでの努力を讃えたい」「胸を張って笑顔で帰ろう」と笑顔を見せた。
 「楽しんで練習をしなえれば成長しない」「ツラい時こそ笑おう」が口グセの、監督らしい優しさだった。
 監督の言葉に補完の語をつけるならば「笑顔」しかない。なるほど、表現したかったのはこれなのか。
「素晴らしい戦いだった(笑)」
 知らなかった。たった一言添えるだけでこんなに気持ちを伝えることができるのだ。世の中のことを僕は何も知らない。
「君たちのこれまでの努力を讃えたい(励)」
「胸を張って帰ろう(鼓舞)」
 カッコの中は一文字だと千石さんに教示された。ならばどうなるだろう。
「胸を張って帰ろう(鼓)」
 鼓? つづみ? いや、太鼓のことにちがいない。試合中にいつも僕達に勇気をくれていた応援団の太鼓だ。 そうだったのだ。監督は「どんなときでも応援してくれる人がいる」と僕たちに教えてくれようとしたのだ。なぜ僕はすぐにわからなかったのだろう。監督の意図に気付けなかった。本当に僕はまだまだ未熟だ。
 人の発する言葉には思いが込められている。
 ではあの日の、あの「約束」の言葉はどういう意味だったのだろうか。
 高校生になって対戦した2回、要くんは乳の周りの毛の言葉を口にした。4月の再会では意味がわからず憤慨してしまったが、あの言葉は彼にとって大切な意味のある言葉なのだ。おそらく中学生の頃から要くんの中にあった言葉なのだ。
 それならば、あの言葉に説明をつけるならば──
「勝手にすれば(毛)」
 やはりわからない。
 どうして彼らは都立などに進んだのだろう。
 国都は何度も寝返りを打ちながら眠れない夜を過ごした。

 卒業する3年生に渡される記念誌に、野球部1年生代表として国都が寄稿することとなった。監督の机の上に置かれていた本刷り直前の原稿に、たまたまコーチが気がついた。

 最後の夏の甲子園を一緒に戦えたことを誇りに思います(笑)
 先輩たちの姿は僕たちの憧れであり励みでした(笑)(笑)
 先輩たちのこれまでの足取りが僕たちを導いてくれました(笑)
 これからの活躍をお祈りしています(笑)(笑)(笑)

 コーチはすぐさま千石を呼び出してブチ切れかまし、管理不行き届きで益村を厳重注意した。
 国都の気持ちを汲み取りすぎて何も修正しなかった監督が、コーチからチビるほど叱り飛ばされたことは部員たちは誰も知らない。





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