第69回忘バワンドロライ「6」

「カーッ、五臓六腑に染み渡るわ!」

 親父は阪神タイガースが勝っているとそう言って缶ビールを飲んでいた。巨人に勝っているときはエエやつを飲む。親父が言うエエやつとは発泡酒のことだ。「生モンなんか口にしたら腹こわす」と生ビールは飲まなかった。いつもは第三のビール。子どもに野球をさせるのは金がかかる、歳の近い兄弟がいればなおさら。

「外まだ明るいやん、キャッチボールしよか」
 兄貴がグローブを投げてくる。BSテレビで試合を観るよりも兄貴とキャッチボールする方が楽しいに決まってる。兄貴のボールは速い。俺よりめっちゃ速いのに俺に「ボール速なったなぁ」と言う。
 兄貴にそんなん言われるのは嬉しいけどなんか違う。けど嬉しい。
 俺の兄貴はカッコいい。チームのエースだ。試合のときお母さんたちは自分の子どもの写真を撮って、「ついでに」と言いながら兄貴の写真も撮る。俺の写真は撮らない。兄貴はエースだからな、球も速いしカッコいい。兄貴がピンチになるところは見たくない。ベース上にランナーが2人、一発がでると逆転をされる。ピンチだ。
「大丈夫だ、兄貴は大丈夫だ。だって俺の兄貴だろ、大丈夫や打たれへん。大丈夫やんな」
 俺の心の声はいつの間にかそのまま大きな声になっていた。
 兄貴はこっちを見てニヤッと笑った。そして胸元ギリギリに投げたのは強気のストレート。バッターは手が出なかった。「突っ立ってても当たらんやろっ」と監督に怒鳴られてテンパったバッターは次の球もその次の球もやみくもにバットを振り回してあっさりとアウトになった。
「兄貴すげーっ!!」
 見たか? 俺の兄貴やで、カッコいいやろ。俺の兄貴や。俺ももうすぐ兄貴みたいに速い球を投げたるわ。兄貴みたいにカッコよくなるからな。

 俺が兄貴と同じぐらい速い球を投げられるようになった頃、兄貴は曲がるボールを投げていた。ほんの少し曲がる程度の球だったが、小学生相手には十分な武器だった。「どっちのボールが来るのか」そう思わせるだけで勝負は兄貴にあった。いつからか兄貴はいつもマウンドで笑うようになっていた。勝ってるときもピンチのときも同じように笑っていた。
 そして俺はどんどん背が伸びていった。
 大きくてカッコよかった兄貴と目線が同じになり、その目線はだんだんと下になっていった。俺以外の友だちといるときの兄貴は背が高く見えるのに、俺の横に来ると小さい。俺の友だちはもっと小さかったがそんなことはどうでもいい。いつも見上げていた俺の兄貴が小さくなっていた。

 シニアでは俺のボールが一番速かった。一番速くて重かった。兄貴はボールを曲げたり落としたり揺らしたりしていた。打とうと思ったところでボールがすっと曲がる。そのあとに胸元に投げられるストレートの威力はハンパない。時速140キロとか150キロとかそんな数字じゃない。数字じゃ俺のほうが速い。数字ではない速さだ、数字以上の速さが襲ってくる。

「ボール速なったな」
 ピッチング練習をしている俺に兄貴が言った。
「身体もデカなったし、そんなデカい身体でそんな球投げられたらかなわんわ」
 子どもの頃とは違う言葉に聞こえた。兄貴の本心だった。俺はうれしかった。うれしかった気がする。カッコよくてエースの兄貴に「すごい」と言われたのだ。うれしいに決まってる。兄貴は笑っていた。勝っているときもピンチのときも同じ、いつもの笑いだった。うちのエースは兄貴だ。どうやってもエースは兄貴の方だ。なにが「かなわん」だ。そんな言い方するんじゃねぇよ。笑っている兄貴の本当の顔はわからないし俺はどう言えばいいのかわからないし、結局俺は何も言えなかった。

 俺が2年生になる頃には、チームは俺と兄貴の2人エース体制になっていた。俺はますます身体が大きくなり、俺と兄貴のピッチングスタイルは真逆になっていった。俺の投げるボールはどんどん速くなり並の中学生バッターじゃ完全に振り遅れるほどになった。まれにバットに当てられたとしても力負けをしないぐらいのパワーもついた。
 兄貴はピッチャーとは思えない華奢な身体をしていた。その華奢な身体をムチのようにしならせて、ムチのようにしなる球を投げていた。涼しい顔でバッターを翻弄している。それもええけどパワーが必要やろ。俺も変化球ぐらい投げられる。そしたら俺の勝ちやろ? 俺の兄貴やったらもっと身体デカくしてパワーつけろや。

「子どもが試合で勝って飲むビールは五臓六腑に染みわたるわぁ」
 いつの間にか親父は阪神の試合ではなく俺たちの試合の結果で飲むビールを変えるようになった。親父は週末のたびに発泡酒を飲むようになっていた。毎度まいど五臓六腑に染み渡っているようだ。兄貴の身体には五臓六腑が入っていない、あの細い胴体に五臓六腑も入らへん。2つ3つ臓器が少ないはずや。せやから小さいしパワーもないねん。

 兄貴が東京の寮に入ると言いだしたのはそれからすぐだった。
 ヒカワとかいう聞いたことのない高校だ。有名なのかも知れないがそもそも大阪の高校以外には興味がない。東京の高校で聞いたことがあるのは帝徳だけだ。
「ピンチのときにマウンドに立つのが好きやねん」
 夕飯時に兄貴が笑っていた。
「帝徳やったらピンチも少ないやろ、おもんないやん」
 ちゃうやろ、だからなんで東京に行くねん。
 大阪のシニアのエースのくせになんで東京なんかに行くねん。
 2センチぐらい一晩寝たら伸びるやろ。なんで弟より小さいねん。何してんねん。だからパワーがないねん。そんな変化球だけじゃ通用せえへんわ、そんなん。そんなんやったら
「プロなんかなられへんわ」
 俺の心の声はいつの間にかそのまま声になっていた。
「東京に行ってもムリや辞めとき」
 兄貴の顔から笑みが消えた。
「寮費も学費も全部タダやで、これで親父も生ビール飲めるようになるやろ」
 兄貴は俺の言葉を完全に無視してまた笑った。

 それから兄貴は俺と目を合わせなくなった。
 俺など存在していないかのように振る舞って、そのまま東京へと行ってしまった。無理や。プロにはなられへんねんから大阪におったらいいのに。

 甲子園に兄貴は来なかった。
 日本の都は大昔から関西や、御所は京都にある。なんで田舎モンの集まる東京なんかに行くねん。都落ちやんけ。その証拠に帝徳高校は全然帝王でも徳川でもなかった。兄貴が投げてたらちょっとはマシやったやろ。なんでおらんねん、なんで来てへんねん。おもんないわ。何でおらんねん。ほんま
「おもんないわクソ兄貴」

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