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遠い友人の話 その2

まず上の記事を読んでからこの先を閲覧することを推奨する。



Mちゃんの命日から3年が経った。私はMちゃんより年上になった。


本当の日付は2日前なのだが、体調が悪く寝込んでしまっていてパソコンを開けなかったのが無念である。
それでも、こういう節目に改めて自分自身の考えを振り返ってみることがそろそろ必要ではないかと感じていた。
そもそもnoteのような長い文章を書くことが久々な上に、思いついた言葉をそのまま投影しているので、多少読みづらい可能性もあるが容赦されたし。

私が大学で社会学を頑張る理由は、今でもこの子のことがあってからの後悔に変わりはない。その意志は1ミリたりともブレていない。

若者を自殺に導くような生きづらさからどう解放することができるか。

卒論ももちろんこの経験をベースにしたテーマで書くつもりである。


しかし、この問題について日々考えていく中で、ある葛藤も生まれたのだ。


他人が自殺を止めることなどそもそもできるのか。
他人から自殺を止めるよう訴える権利など本当にあるのだろうか。
止める理由があるとしてもそれは結局自分が寂しいからとか悲しいからとか、我々のエゴにすぎないのではないか。
本当に当人のことを想っているのなら、自殺だとしてもその選択は尊重すべきものなのだろうか。

Mちゃんのことは大好きだった。Mちゃんのことは何でも知りたいと思った。
それでも、あの時の私が知り得るMちゃん像などほんの氷山の一角にすぎない。インターネット上の友人なのだから尚更だ。
ましてや、学校の友達だったり家族だったりしたとしても、Mちゃんという存在を完全に理解することなんてできないだろう。

Mちゃんのことをいちばんよく知っているのはMちゃんなのだ。Mちゃんのことを決めるのはMちゃんでしかないのだ。

私がMちゃんに「死なないで」と思っていたことが、Mちゃんにプレッシャーをかけ、より死ぬ方向に向かわせていたのかもしれない。


今の研究をして卒論を書いたとて、Mちゃんは二度と帰ってこない。大好きな人を追い詰めて死に至らしめた社会の、まさにその一部であった自分の罪はどう償っても償いきれない。

私から会いに行くしかない。あの時の私に比べたらすっかり身も心も汚れて擦れて、散々疎んじられて結局一人ぼっちで、精神薬がないと起き上がれもしない、本当にどうしようもないクソみたいな大人になったけれど、それでもMちゃんが迎え入れてくれるのなら、会って抱きしめたい。
まあ生憎、私にも社会的責任とか人間関係のがんじがらめとかがのしかかっていて、高層ビルの屋上まで上れるほど足が動かない、というかそれを捨ててまで飛びに行く勇気がまだない、のだが。


Mちゃんの歌の録音データがアプリ上に残っていたことに今更気がついた。
最新の投稿は彼女が好きだった(その影響で私も好きになった)クリープハイプだった。私は思わずそのデータを開いた。

綺麗な歌声だった。あの時聴いていたままの歌声だ。羽根が生えたように伸びやかでまっすぐで、しかしその奥に底なしの憂いや怒りや悲しみのエネルギーを帯びた、時に叫びにも、また時に語りにも聴こえる、大好きな歌声。

Mちゃんはもういない。今でも、駅の向かいのホームやすれ違う群衆、水族館のクラゲ水槽の中とか、今画面に向かって集中している私の背後なんかにも、実はいるかもしれないなんて思ってしまうが、現実はもういないことに変わりないのだ。


私は、彼女に対する心からの尊敬と感謝を込めて今日も祈る。どうか、向こうではあなたの愛する人と共に、安らかで幸福な暮らしでありますように。

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