エッセイ:バナナとナスビ、死のやわらかさ
「豚たちは二度死ぬ。一度めは屠殺場で、二度めはエディプスちゃんちの冷蔵庫のなかで」(ゴンドアの谷の歌)
私は食糧を保存するというのが苦手だ。逆にいえば、食糧をダメにすることに特化した才能がある。買えば肉や魚は腐りはて、野菜・果物の類いは原形を失ってしまう。かくして冷蔵庫はさながら霊安室のよう。その悪癖を自覚しているため、ふだんはその日に食べるぶんしか食糧を買わないようにすることで対策しているのだが、それでも時々は魔が差してあれこれ買い溜めてしまうことがある。私という人間は、とかく魔が差す人間なのだ。
そうだ、今日はカレーを作ってみよう! じゃがいも、にんじん、たまねぎ、牛肉、モロヘイヤ(エディプス家では、夏のカレーにモロヘイヤをいれる)。さて、スーパーで勇んで食材を買ったはいいが、家に帰った途端にもう作るのが面倒くさくなっている。やはり、カレーは明日にしようかな。こうして、冷蔵庫は絶滅収容所の様相を帯びることになる。一晩たつと私はカレーの材料のことなどすっかり忘れ、食材たちは非業の死を遂げる運命に。だいたい万事そんな具合であるから、なるべく食糧は買い溜めないルール。
何故こんなことを書いているのか?
きょう仕事から帰ってきて、ビールでも飲もうかと冷蔵庫を開いたところ、バナナとナスビが共に並んで死んでいた。それだけのこと。たったそれだけのことではあるのだが、その居住まいが非常に好かったというか、私はにわかに感動さえ覚えたのであった。すこし疲れているのかもしれない。しかし、そこには確かに頽廃の美しさのようなものがあった。昨年末に冷蔵庫内を徹底的にきれいに磨いたことも相俟って、その死の異様さがきわだつようでもあった。美しい。宗教的とも言えるなにか荘厳さ。あるいは、ディペイズマンとでも言おうか。おそらく、数日前からバナナとナスビはそこで死んでいたのであろうが、今夜のようには私の心を奪わなかった。
知っているか? 腐敗の果てにバナナは黒くなり、ナスビは白くなる。彼らの遺骸はとてもよく似たすがたをしているけれど、白いバナナは黒く、黒いナスビは白く変色するのだ(原理は不明だが、うちの冷蔵庫のなかではそのような現象が起きている)。その対称性に想いを馳せると、まるで奇跡のようだと思った。解剖台の上でミシンとコウモリ傘は偶然に出会うというけれど、この冷蔵庫の棚に並びあったバナナとナスビの出会いはそれに劣らない。偶然性の美しさと崇高さがビールと一緒によく冷えていた。
私はバナナとナスビに触れてみる。指で捺すと、どちらもブヨブヨしていた。色はちがえど、その弾力には共通するところがあった。死のやわらかさ。なるほど。死といえば、どこか硬直・膠着したイメージであったけれども、存外それはやわらかいものなのかもしれない。産まれたばかりの赤児のやわらかさは大人になるにつれ損なわれていくものとばかり思っていた。死に瀕してやわらかくなるということもあるのか。死後硬直ならぬ死後柔軟とでもいう。そんな死のイメージだってあっていい。バナナとナスビからそんな学びを得たような気がした。サンキュー。アデュー。私は冷蔵庫の扉をぱたんと閉じる。
("食べものを大切にしろ"という批判は甘んじて受ける)
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