「○○でメシ食えそう」なら今頃それでメシ食ってんだわ
自慢ではないが、私は小さい特技ならたくさんある。しかし、それで食べていけるレベルのものでは到底ない。
自分の髪を綺麗にショートカットにできるからといって美容師にはなれないし、アロマの1級を持っていたところであくまで上位資格のための踏み台みたいなものだしアロマセラピストは資格がなくてもなれるものなので頑張って上位資格を取る必要性も感じない。紅茶検定中級を持っていたからといってすぐお茶の専門店に就職できるわけでもない。
ハンドメイドだってよく褒められるが、めちゃくちゃ売れてお金になるほどではない。あとよく褒められるのが文才だ。このnoteを読んだ人がどう思うかはわからないが、友人知人には大変文章力があると言われる。しかし、しかしである。
「エッセイでメシ食えそう」
と言われても、メシ食えるレベルのエッセイ書けてたらもうとっくにエッセイストでメシ食っている。
考えてみてほしい。私はもう40過ぎている。学生さんや20代半ばくらいの子に言うのならわかる。本人がまだ適性に気づいていない可能性があるし、伸びしろもあるだろう。だが、40過ぎた人間に言われても自分の適性は既にわりと把握しているし、それで食べていけるほどの才能ではないことも自覚している。そもそも食べていけるようなレベルであればフォロワー数は最低でも5,6桁いるであろうし、有料noteを書いても読んでもらえるだろう。だが現状だ。フォロワー5人、いいね数も最高で6だ。そして、文筆業でいきなりエッセイストというのはあまりないような気がする。小説が売れてその作家がエッセイを書いて出版する、というケースが多いのではないだろうか。小説ではないにしても、ある程度名が売れた人間が書くものが読まれるのではないか。
もっとも、最近はネット社会である。この手のブログ類からエッセイストデビューする人もいるだろうし、出版にこだわらず有料記事で稼ぐ人もいるであろう。だがそれも名が売れないと難しいことだ。今の段階で「エッセイでメシが食える」とは思えない。
年齢、40とちょっと。「○○でメシ食えそう」ならもうとっくにそれを生業にしていておかしくない歳だ。しかし今それで稼げているわけではないということは、「食えそう」に思えても「食える」わけではない、ということだ。
大器晩成という言葉があるが、とある小説の中で
「お前のやかんはでかい。でかすぎて一生沸かんかもしれん」
というような台詞があった。これは実際にある噺家一門で師匠が弟子に言った言葉らしいが、詳しくは知らない。
つまり、でかすぎるやかんに成分が違う色々なものが混ざって入っていて、一生沸かないかもしれない、いや沸かないだろう、というのが現在の私がおかれた状況なのだと思う。
やれやれ、これが器用貧乏というやつか。
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