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「総合人間」とはなんなのか?-総合人間学部に4年間居て分かったこと-

こんにちは、しがない大学生代表、京大4年の山本周雅です。僕は「総合人間学部」という全国でもあまり他に見ない学部に属しています。

みなさんももうこの時点でお思いかもしれませんが、僕はずっと疑問でした。

「総合人間」って結局なんやねん。と

受験時から抱いてたこの疑問に対し、4年間在籍し続けて、なんとなく見えてきたことを僕なりの答えを今日は綴っていこうと思います。

※この文章は「人類みな総合人間たるべし」という価値観のもと執筆されております。


まず結論

みなさん、時勢に追われて大変かと思いますので先に結論からサクッとご紹介します。

①総合人間とは、知識コレクターではなく知恵の実践者である。

②総合人間とは、マージナルマン(境界人)である。

③総合人間とは、ノブレス・オブリージュを身につけた者である。

以上3点ではないかと思います。難しいですね。わざとそうしました。

どれか一部だけあったとしてもそれは「ソウゴウニンゲンモドキ」です。別の生物です。すべて揃うことによって総合人間の必要十分条件になります。

ここまでですべて理解できた方は別の条件がないのか探りながら読んでみてください。

それでは、自分の実体験を交えて1つ1つ詳しく見ていきましょう。(かなり主観で書かれていますので批判精神を持ってお読みください。)

知識コレクターではなく知恵の実践者である

正直、総合人間の9割はこれだと思います笑 あとはおまけ

まずここで明らかにしておきたいこと。それは「知識」と「知恵」の違いです。僕の認識では、知識はデータそのもの、知恵はそのデータを利用可能な状態に自分なりに加工したものという感じです。

以下のブログに丁寧に説明されているのでここでは詳しくは省きます。

色々と実体験を話す前に大まかな「総合人間学部」を説明しておこうとおもいます。(知っている人も一応読んでね)

総合人間学部は、文系理系ともに受験することができ、入学してからは文理に関係なく自由に授業を取ることができます。言語や入門科目を除けばほとんど必修になっているものはありません。3回生になるときに学部を更に分割した5つの学系のうち1つを主専攻、1つを副専攻としそれを基調とした形で授業を自分で組み立てていきます。

しかし、それも自分で取っている授業の偏りでなんとでも調整できるので、ほとんど4年間自由に一般教養を学んで卒業します。単純にまとめると基本は、広く浅くいろんなことを自由に学べる学部です。

ここで大事になるのは、ある程度の入門の簡単な知識のインプットに非常に恵まれた環境なんですよね。そして、高校生までインプットに特化した教育を受けているので、その惰性で「とりあえず、いろんな知識を身につけとこ」な人がよく現れます。はい、1回生の僕ですね。

この状態になると、知識ばっかり集めることに満足感を覚え出すんですよね〜、実践はもっと完璧に「知識」を揃えてからにしようみたいな(一般教養を学ぶ他学部の1,2回生もこの傾向は多いかも)

これが知識コレクターですね。第一の総合人間への障壁になります。

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これを打開するにはどうすればいいのか。

僕が4年間見てきて、活躍していた人とあまりそうでなかった人の違いとして(何を活躍するとするかは難しいですが)最も挙げられるのは

大学生活全般(授業だけではない)もしくは課外活動(バイトや学生団体)を通して、持ちうる知識を社会との兼ね合いを踏まえ活きた知識にし、かつそれを現実世界で自分なりに活用する取り組みをしているかどうか

つまり、知識を知恵として身につけ実践しているということになります

自分の知り合いの例をあげると、脳科学の知識や受験時の数学の独自の解き方を組み合わせ、塾の講師として自身で教科書を作りつつ働いている者、生物学の知識と自身の恐竜に対する興味から、博物館で働いたり化石を堀りに行ったりして、古生物の研究を中国までしに行こうとしている者、などなど

そんな人たちが総合人間たる態度を体現しているなと。

世の中に存在する多様な知識を知恵に変換し、ただただ知識コレクターとして机上だけ過ごすのではなく、この世の中に微小ながらも還元する。

知恵の実践者こそ、総合人間である。

②マージナルマン(境界人)である。

これは、ほとんど①に内包されています。

①を実現する上でやっていることとは、世の中に散っているいろんな知識をあえて横断的に統合することで新たな知恵を創造しているのです。つまり、いろんな分野の境界線上に立ち、その渡し船の役割を担っているのです。それを僕はマージナルマン(境界人)と表現したのです。

これはもともと総合人間学部自体が創設されたきっかけにも繋がります。

もともと学問界ではある程度、横断的に協力しながら研究などを進めていました。しかし、だんだん研究が進むことで学問分野が分断、細分化されていき、隣の研究室でさえ近い分野でも何しているのかがわからない、そんな状況が生まれました。そんな状況では、「知識の断片化」つまり、視野狭窄な知識が蓄積され、そもそも研究していた目的自体を見失ってしまう。

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知識だけが独り歩きしてしまう本末転倒な結果に対抗するべく、その境界線に立って統合することで目的を見失ったところに一縷の光を射し込むためにつくられたのが総合人間学部なのです

以上のことを踏まえると、総合人間が境界人という意味がわかるのではないでしょうか。

もともとのマージナルマンの原義は、「もう青年ではないけれども成人になりきれていない境界線にいる人」という意味なのですが、それを拡大解釈し「いつまでも未完成」という意味も総合人間的な態度に必要ではないか、というかっこよさめなことを残しこの章を締めたいと思います。

境界人こそ、総合人間である。

③ノブレス・オブリージュを身につけた者である。

長くなりました。最後です。

みなさん、ノブレス・オブリージュという言葉はご存知ですか。

身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという、欧米社会における基本的な道徳観。という意味です。

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これはほとんど総合人間とはこうあってほしいという僕の願いが入った主張かもしれません。

①や②で確認したことと関連するのですが、知恵の実践者であろうと境界人であろうと身分が高くなくても、一般人である我々が現在の世の中において何かを行動を起こそうとすると、SNSやインターネットの普及によって、ひと昔前にくらべ何倍も自分の行動や発言が広がるようになりました。つまり、顔も見たこともない人にも影響を及ぼすようになったということです。

ここで大事なのが、適切な倫理観や道徳観を持ち合わせずに行動すると行動した当人の意識の有無に関わらず、人を傷つけてしまう可能性がでてきたという点です。ここは議論点になると思いますが、そこに対しても責任を持たなければならないのではないかと思うのです。

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総合人間は、特に幅広い分野や未知の分野を扱うことになるのでこの責任を負う確率は自ずと高くなるのです。

それ故、適切で視野の広い倫理観や道徳観を持つ、つまりノブレス・オブリージュをしっかりと身につけなければならない。と思うのです。

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さいごに

3000字に渡る文章になってしまいました。

もっとさくっと総合人間とはなにか書くつもりだったのにな笑

一応この4年間、総合人間学部に在籍し続けてきて、自分なりに総合人間とはこうなんじゃないか、こうあるべきなんじゃないかと思ったことを今回文章にしてみた次第です。

この文章は、今、総合人間学部に在籍している人たち、これから総合人間学部に入ってくる人たち、総合人間に興味を持った人たちに捧げたいと思います。是非参考にしてみてください。


①総合人間とは、知識コレクターではなく知恵の実践者である。

②総合人間とは、マージナルマン(境界人)である。

③総合人間とは、ノブレス・オブリージュを身につけた者である。


みなさんが良き「総合人間」ライフを送れますように。


京都大学総合人間学部4回生 山本周雅

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