すまーとじゃないまちづくり?

運動会が好きだ。

でも別に運動会を毎日やりたい訳じゃない。

大人になってまで意味もなく一つの大玉を追いかけたり、一つのゲームの勝敗に嬉しがったり悔しがったりするだけで、気が付いたらみんな仲良くなっていて、さっきまで知らなかった人同士が安心して同じ場を共有できている感じが好きだ。

同じ理由で、家に人を招いて昼から夜までただただご飯を食べてお酒を飲むだけの会も好きだ(伊藤家の食卓と呼んでいる)。美味しいものを美味しいというだけでなんとなく一緒にいる理由になるし、なんとなく話ができ、なんとなく仲良くなれる。

たぶん目的なんてなくても安心して一緒にいられる関係性があるということは、それだけで意味があって、それを運動会とか伊藤家の食卓という形をとるとやりやすいのだと思う。

安心して一緒にいられる関係があれば、ありのままでいられる。ありのままでいられれば、イキイキしてくる。言いたいことが出てくる。やりたいことがでてくる。

小さくてもやりたいことが形になったり、自分のやりたいことで人が喜ぶとなんだかうれしい。運動会でみんなで種目を作るのも楽しければ、運動会のあとのBBQで料理をふるまうのも、伊藤家の食卓で自分の好きなお酒をみんなで飲むのも楽しい。

そこには平和な社会の最小単位がある気がする。自分と周りの人が良好に保たれ、お互いに許しあっている状態。そういう社会がもっと普通の生活の中に普通にあればよいのに、と思う。

ただ暮らしているだけなのに、なぜか息苦しくてしんどい人がたくさんいる。

介護がしんどい人、子育てがしんどい人、働くのがしんどい人。どこか無理している箇所があって、どこかにひずみが生まれている。

そうしたひずみが生まれないような社会を構造としてつくることができたら、誰もが自分のやりたいことを実現しながら誰かのためにふるまっていてお互いに許しあっているような状態がつくれたら、たぶんすごくよい。

そういう状態でいられるような「場」や「まち」をたくさん作れたら、この社会はもっとよい場所になりそうな気がする。

きちっとつくられてしまっているこの街の中に、余白をつくり、ありのままでいられる「場」や「まち」をつくりたい。

だから、やりたい。すまーとじゃないまちづくり。


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