amazarashi 『ごめんねオデッセイ』のMVが賛否両論になっていた

概観したところ、どちらかというと否寄り。ただ、同量の賛と否があれば、否がもてはやされて増幅されるのがインターネットの特性だから、賛否両論がより実情にほど近い可能性はある。


個人的な印象では否だった。理由は明快で、「題材が身近でなく」、かつ「生臭い」からだ。

これまでの僕の人生は、amazarashiが経験してきた艱難辛苦の道に比べれば、穏やかな幸せに尽くされてきた。だからamazarashiの曲が好きだと口先でもてあそんでいても、きっと僕は秋田ひろむのターゲット層ではなかった。極少数の廃課金プレイヤーに乗っかっている、無課金プレイヤーのようなものだ。

(しかし私はソシャゲなるものが好みに合わず、まともにやっていたこともないので、大して知らないくせに無課金だの廃課金だのと無責任なことを書いてしまって申し訳ないと思う。でも、思うだけ)

いうなればamazarashiエンジョイ勢の僕は、本MVに不快感を煽られた。都合が良く手軽な「美しき挫折と葛藤、折れぬ未来への憧憬エミュレータ」としてamazarashiを楽しんでいた僕にとっては、この薄汚れた、手垢水垢に塗れた、先週ぶちまけたままの三角コーナーみたいなMVは趣味じゃない。

おそらくだが、MVのコメント欄で忌避感を露わにしている連中も、小手先でいろいろと理屈をこねまわしているが、結局のところ根は同じなのではないかと思う。

これまで、amazarashiのMVはどこか不明瞭さというか、考察の余地に富んでいた。タイアップ曲など明確なものもあるにはあったが、そもそも顔から兵器だの花だの触手だのが飛び出すてるてる坊主をマスコットにしているバンドのMVに、一意の解釈などあってたまるかという心もある。

それがどうだ。このMVに出てくるのは人、人、鮮明な背景、顔、顔、顔。

個が明示されすぎている。

人間の顔は個の象徴だ。従来のMVからハット、影、あるいはCGアニメという非現実という手段でもって「人間の顔」をごまかし、心地良い曖昧さ、婉曲、匿名性を保ってきた流れに突如やってきた具体。

(そういう理由で僕は未来になれなかったあの夜にのMVもあまり好きではない。もちろんスワイプも)

婉曲の何がいいかと言えば、その清潔さに違いない。直接目にしない部分を身勝手に補間できるが故に清廉さを確保できるのだ。喫煙を表現するのに、正に煙草を吸っているその瞬間は必要ない。無造作に置かれたライターの描写で十分だ。いじめの表現だって、薄汚れた制服と空っぽの鞄で十分じゃないか。

だれだって誰かの紫煙なんて吸いたくないんだから。

だれだって誰かがいじめられているところなんて見たくないんだから。

だから「まさにその瞬間」は写してほしくない。不快になるもの。

ただしその「事実」には需要がある。直接表現がなされていなければ、あるいはいかに直接で真に迫っていても、その真があまりに己の日常と乖離していれば、それは我が身から切り離されたどこかの誰かの日常として、後ろめたさなく消費可能なコンテンツになる。

僕はこれまで、そうしたコンテンツを楽しんできた。だからこのMVは嫌いだ。

この、普段は関わらない、関わりたくない、しかし関わろうと思えば関われてしまうかもしれない、中途半端な距離の日常の具体を扱ったMVは。


しかし、どうだ。私はこの生活を知らない。4畳半の創作も、怠い社会も、水商売も、痛みの伴う義務教育も、湿った街の朝焼けの、何一つを知らない。

木漏れ日への渇望を知らない。

その生活にもしかするとあるかもしれない、いや、おそらく存在する、いや、きっとあるに違いない鬱屈も葛藤も、何一つだ。

そのクセに手前勝手な潔癖でMVを唾棄し、生活に根差さぬ倒錯をパソコンの画面に書き散らしている。誰よりも誰かに寄り添ってきたはずの歌々に。

意図的に疎らに切り抜かれた日常の描写に、切り取られたその一部すら受け止めきれぬ蒙昧が騒いでいる。

そんな体たらくでよくも不快だなんだと言えたものだな。


忌避感というものは、主に己の認識の外側に向けられる。奇異、奇怪、面妖、非凡、常識の範囲外に対する反応。連綿と続いてきた代り映えのしない日常を守るための防衛本能。

このMVに映る日常は、私の日常ではなかった。この感情の出自は結局のところ、それだけだ。

ほんの僅かであっても自分の心情と重なる詩をうたっていたamazarashiは、もしかするとほんの僅かは私なのかもしれないと思ってしまった。

だがそんなはずはなかった。秋田ひろむは、私の代弁者であるわけがないのだ。


君の代弁者は君以外にいない 匿名の希望

amazarashi/匿名希望















しかしそれでも、一つだけどうしても気に入らない部分がある。それは写真のフィルム風加工だ。平成中期ならばまだしも、この現代にフィルムカメラを使っている人間は数少ない。いまこれらの「日常」を切り取るのにふさわしい道具は、スマホ以外にない。なぜフィルム風の加工をしたのか、その理由に、写真の撮影者の存在とそのパーソナリティの示唆とか、このMV自体をアイロニーの対象としているとかのメタ構造がないのならば、悪手としか考えられない。むしろバリバリにAIの補正を利かせたデジタル画像の方が「いま」なのではないかとばかり思ってしまう。



そしてこちらは最近よく聞いている『ごめんねアラビアータ』です。曲が良くて絵がかわいいので好きです。同作者の他作品も。

ここはどこだ