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初めての葉巻は450円だった [PRINCIPES]

ふと、葉巻がどんなものか気になったので、吸ってみることにした。

1.外観

カッコつけて持ってるわけじゃないです 本当です

直径は大体15mm、全長は約110mm。吸い口は切ってないのでカッターで好きなように切る必要がある。
販売時すでにバラ売りされており、1本1本がビニールの包装で包まれていた。価格ラベルさえ貼られていなかったようで、店主が少し手こずっていたのは語るべきことではないかもしれない。
どうやらこれは湿度や温度を厳正に管理しなくてもよいらしい。あの陳列を見る限りは。

シガーリング
解像度はスキャナの限界

しかし断面を見る限り、そしてリングに書いてある「HAND MADE」の文字列を信じる限り、プレミアムシガーと呼ばれる種別に見える。プレミアムシガーといえば、ヒュミドールとかいう、高価で、シャレオツな保管庫で、後生大事に保存しないとダメになると思い込んでいたので少し驚いた。
あるいは、この価格帯のものにそこまで気を配ると採算が合わない、というだけかもしれない。

そして上の画像の葉巻の持ち方について、改めて弁解させてもらうと、ぼくの親指の内側はあまりみったくない。ので、ああ持つしかなかった。
真相は藪の中。


2.所感

手に持った感じは思いのほか軽く、少し気を抜くと、外側の葉(ラッパーとかいうらしい)が解けかねないほどだ。もっとがっちりとした、それこそ、木材に近い持ち心地を想像していたので意外だった。

そして匂いを嗅いでおく。スネークだってやってたんだから、きっと正当な作法のはずだ。
と、またも意外ポイント。臭い。
葉っぱだからあくまでも植物的な、というか青臭さとか、森の中とか、そういう匂いを想像していたのだが、むしろ獣にも通じるような、誤解を恐れずに言葉を選ぶと「饐えた」匂いがした。
これは後から合点がいったのだが、葉巻の葉は発酵させているらしいため、そのことに考え至っているのであれば、あの極めて有機的な匂いも納得である。が、当時のぼくは葉巻をスモーク用のチップの親戚にあてがっていたのだった。


3.道具

さて、ぼくは葉巻用の道具を一切持っていない。シガーカッターも、ターボライターも、なんなら灰皿さえ。ただ灰皿に関しては幼き日に作った陶芸体験の産物があった。しかし幼きぼくは全く喫煙のことなど考えていなかったはずで、たしか趣旨も食器を作るとのことだったと記憶しているのだが、まるで灰皿にしか見えない何かを生み出していた。
まぁ厳密にいうとこの”灰皿”は葉巻用に使うにしては不適当だが、今回は一度きりのお試しと腹を決めているので、問題ない。どうせ上手く吸えないに決まっている。

ターボライターに関しても、どうやらオイルライターでなければよい、ターボであれば尚よい、くらいの感覚らしいので、引き出しの奥底に眠っていた100均ライター(チャイルドロック機構付き(チャイルドロック機構付きのライターはスイッチがバカほど重く、これが原因で喫煙者が減ったのではないかとさえ思うほど不便だ。墓参りのたびに誰かの親指が犠牲になるのはどうかと思う))を使うことにした。

しかしシガーカッターに関しては、その形状はあまりに独特で代用品が見つからない。どうしたものかと手を拱いていると、某知恵袋サイトで「市販のカッターナイフで切り落としている」との情報を得たため、念のため洗浄した100均のカッターを用意し、三種の必須器を取りそろえることができた。


4.切断

さて、まずは吸い口を切り落とす。いくつかのサイトをはしごし、鵜呑みにした情報によれば、吸い口の丸みを多少残す程度にカットアウトするらしい。
初めての挑戦である。未使用であるがゆえに切れ味が保証されているカッターで吸い口を断ってみると、キャップが破れてしまった。
そりゃそうだった。
ぼくはまな板の上で人参を切るがごとくに切り落としてしまったが、葉巻の場合は何層にも重なり、最後に嵌めたラッパーの一部がキャップであるのだ。それをきちんと押さえるでもなく刃を落としてしまったら、接地方向のキャップが破れるのは当然である。

やれやれ。僕は着火した。


5.着火

キャップが破れたといっても指でおさえれば何とかなる。次の難関は着火である。
葉巻は紙巻タバコと違って吸いながら着火するわけではない。そもそも吸いながら着火など、クジラの赤ちゃん程度の肺活量が必要になってしまう。

断面が単純に広いうえ、燃焼促進剤なども入っていない葉巻は、火をつけるのにそれなりの火力と時間を要する。もっともぼくは紙巻タバコを吸ったことがないので、具体的な違いについてはよく分からないが。その昔、紅茶を吸おうとして紙巻タバコ作成キットを購入し、結果としてシャグのようには細長くない茶葉のおかげで水平未満の俯角になると中身が零れ落ちる紙巻紅茶を作って以来、紙巻には触れていない。水中に潜んでいる忍者がごとく紙巻紅茶を呷って呑んでみると、口内には微かな紅茶の良い香りと、それを払拭して余りあるえぐみが流れ込む。舌に焼き付くような苦みは数時間続いた。ぼくは紙巻タバコを吸わないと決めた。

話がそれてしまった。つまりぼくが言いたかったのは、葉巻は断面をしばらく炙り、ラッパーが均等に灰になったら吸い始めるといいらしい、という見地を、この広大なインターネット地平線の片隅で学んだということだ。


6.喫煙

と、言いたいところなのだが、この時点でぼくは少し驚いていた。
さっきから少し驚きすぎな気もするが、しかし初めての体験であるがゆえ、驚くのは致し方ないと申し開く。だが確かに「少し驚いた」だの「意外」だのが多いという意見も、これまた非常に価値のあるものだ。
では表現を変えよう。
だいぶ驚いた。それなりに、べらぼうに驚いた。

ぼくが紙巻タバコを吸わないことに、決して手前勝手な紙巻紅茶のみが起因しているわけではない。
ぼくもそれなりの年長者と繋がりがないわけではない。よって紙巻タバコの喫煙シーンに会すことも無かったわけではないから、副流煙の味を知ってはいる。
それを嗅ぐと、どうにも、匂いは別にして、頭が回らなくなる感覚に陥るのだ。もともと回っている頭であるわけでもないので、恐らく錯覚なのだが、しかしどうしても己のパフォーマンスを埒外に損なわされていると考えると、少々複雑な心境にもなる。
電子タバコ(といってもVapeではなく、いわゆる加熱式タバコ)の時もそうだった。

今回もそうだろうと思っていた。しかも副流煙とかいう副産物に限らず、本体の煙を口内に招くとあれば、もはや正常な思考は保てなくなるとさえ予想していた。

しかし、そうではなかった。
確かに煙である以上、一定の生理的反応は抑えられない。我々が摂取すべき酸素を窃取している手前、完璧な共存はあり得ない。
だが不快ではなかった。むしろどこか心地いいような、癖になるというと初見にして中毒に陥った重篤者に思われるかもしれないのであまり言いたくないのだが、悪くないのだ。

着火前の、あの饐えたような匂いも、煙というどこまでも非生物的な毒気に、一抹の生気を与える、人間と燃焼の橋渡しとなる。
吸い口からの香りだけでなく、火先から立つ紫煙も、アロマ的な室内効果を齎していた。アロマなど一度たりとて炊いたことはないが。
そして何より驚いたのは、甘さだ。
火と、葉と、空気。それらから「甘さ」という概念が生まれるとは、正直想定さえしていなかった。
ぼくの葉巻体験の価値の大部分を占めているのは、この「甘さ」かもしれない。プリンに醤油でウニとか、キュウリに蜂蜜でメロンとか、そういう不可思議体験に、ぼくは価値を見出したのかもしれない。キツネにつままれたようだった。

そんなこんなで、ぼくの初喫煙は思いのほか好感触であった。
吸うペースがわからなくて灰を折ったら先が尖っていたり(先が尖るのは吸いすぎ、凹むのは遅すぎで、クールスモーキングが美徳とされる界隈では尖らせないほうが良いらしい)、逆にペースを落としすぎて火が消えたりと色々あった。なかなか難しい。最終的には煙が細くなったら吸うようにした。

舌の肥えた愛煙家であればこれから、吸い始め、中盤、終盤でどう味が変わったかとか、灰の長さでどうたらとか、そういう機微を書き連ねることができるのだろうけれど、ぼくにわかるのは「不快感小、甘」のみだ。

実際短くなってきたら辛味が増すとか、そも煙が熱いとかはあったけれど、些事だった。舌先で煙の味を、とかいうけど、ぼくには口腔喫煙自体ハードルが高いのだ。肺に入れるとまずいと聞いて、熱々のたこ焼きを一つ頬張ってしまったときに近い口の動きになっていた。味を感じる余裕なんてない。諦めて鼻に通していた。

しかしそれでもなんとなく面白いものだ。甘みを感じる、という点はもう十分として、煙自体の揺らめきが素朴に魅かれる。
炎が燃ゆる様を眺めることでリラクゼーション効果が齎されるのに似たものだろう。たまに眼球ダイレクトスモークアタックに涙することはあったが、これはきっとぼくの吸い方の問題だ。灰が散るのが嫌で、灰皿を覆うように吸っていたのが悪い。葉巻の火が目の直下に近い場所になってしまうから、きっと水平に保持していれば目に入ることは少なくなるはずだ。

という見地を得たあたりで終了。喫煙時間は、火が消えて再着火したなどのもろもろを含めて、大体二時間弱といったところだ。


7.結論

この はじめてのはまき の、最終的な感想としては、「なんだ、悪くねえじゃん」というものだった。
世間では悪し様に取りざたされている煙草というもので、仮に世間体を気にせずとも家計に深く食い込むこと請け合いの趣味だが、思ったより悪くはなかった。
ただしばらくの間、具体的に二日くらいは鼻の奥に煙さが残るのは厄介である。それに付随して飯がまずくなる問題があるのはよく知られているが、確かにそうだった。旨いものを食べることが生きがいならば、これをしてはならない。

しかしたまの息抜きというか、単なる知的好奇心なのかもしれないが、いろいろと試して自分好みの葉巻を探すのも悪いこととは思えない。
どうせ今のぼくの経済事情では大したものは買えない。一度の会計は四桁に届かないだろう。

ならば貧乏人の精一杯の粋がりとして、これからいくつか葉巻を吸ってみても良いか、と、そう思った。




まぁまぁフラットな断面になって嬉しくて撮った


不快感の少ない持ち方を模索している
かっこいい持ち方を模索してはいない
断じて


補遺
ちなみに箱を見て買ったわけでもなく、レシートにも「葉巻」としか書いていなかったため、この葉巻の情報が「PRINCIPES」であるということ以外得られなかった。
無知は罪である。


ここはどこだ