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舞台『純血の女王2022』 ナターリエと"魔術"の考察

初見時に「ナターリエには劇中描かれない裏設定があるのでは?」って引っかかってて、今日は2回目観るとそれっぽい描写があったので、ラヴェイ派サタニスト(魔術は消極的肯定派&無神論)の一考察です。


-------------以下ネタバレ-----------


引っかかってた部分というのは「実はこれナターリエが魔術に失敗した話って見方もあるんじゃね?」というもの。特に、最近私が見た映画で『悪魔の往く街(1947)』『ナイトメア・アリー』との共通点を感じたことです。
これ、どちらも原作が同じ映画なんですが、それが判り易く描かれるのは1947版なんで、そっちの話をします。

この映画では、トリックを使った読心術のショーマン(スタン)が登場します。しかしある時、トリックを見破って詰め寄る観客があらわれます。スタンは焦るものの、集中力を働かせ、その観客の心を見破ってみせる。この場面はタネも仕掛けも何もなく、まさしく「魔術」が働いた場面。こういうある種の集中力が働く場面や逆境下では、本物の魔術が働くという考え方があります。

『悪魔の往く町(1947)』目隠しをして観客の考えを当てるショー

しかしスタンは、それが自分の推理力だと勘違いし、実力を過信する。これは魔術のルール上は禁忌。魔術のルールには「魔術で願望をかなえても、その力を否定すれば得たものを失う」というのがあるからです。これはラヴェイの『悪魔の聖書』に登場するものですが、同様の説はエリファス・レヴィの『高等魔術の教理と祭儀』のような魔術書にもあったと思う(ちょっと記憶があいまいで引用できなかったので、そのうち読み返そう)。
スタンはその後、散々な目にあって得たものを失う。『悪魔の往く街』は、そうした"奇術"と"魔術"を混同した結果、しっぺ返しくらう話と捉えることもできる作品。

さて、純血の女王の話ですが、ナターリエには『悪魔の往く街』の奇術師スタンと共通点を見出せます。
ナターリエの正体は、リーガスブルク城に潜入するオスマン帝国の密偵でした。彼女は、当時流行っていた魔女裁判制度を利用し、カタリーナを魔女だとでっち上げて城を混乱させます。

このでっち上げの過程で2つの魔術が働いているのでは、というのが私の解釈。
1つは彼女がフェルトバッハの街で魔女の噂を流すところ。
ナターリエは城でカタリーナと話していると、突然突風が吹いて怪我をする。カタリーナは薬草でナターリエを治療するが、街に降りるとなんとナターリエは「花で傷が治るなんて魔術だ」と主張する。カタリーナの花で助けられていた町民は最初は動揺するが、この時に一番最初に同意を示した町民はフランツィスカでした(その正体は悪魔)。ナターリエは悪魔の力を借りて、魔女の噂を流布することに成功したことになります。

ナターリエ(信濃宙花)とフランツィスカ(永瀬がーな)

2つ目は、そもそも何故ナターリエが都合よく怪我したのか。この偶然が無ければ、ナターリエは魔女裁判の証拠を得ることができず、魔女の噂を流すことは難しいでしょう。しかしこの場面、ちょうど城内にフランツィスカが忍び込んでいて、ガラリンと会話があった直後でした。
カタリーナは庭園でナターリエに死神の話をし、ナターリエは「もっと詳しく聞かせて」と魔女の証拠を聴き出そうとします。ナイトメア・アリー同様に、集中力が働く場面です。その時に突風が吹いた。この場面にフランツィスカは出てませんが、「悪魔がそばにいて」「ナターリエが集中力を発揮して」という2条件が揃い、魔術が働いたのでは?ってのが私の解釈です。

悪魔の目的は、劇中では描かれないものの、たいていは、純粋な人を騙したり誘惑したりして混沌をもたらすこと。これは聖書だとエデンの園でイヴを誘惑した話やヨブ記で神に挑戦した話など色々あります。映画だと『ダークナイト』のジョーカーもそう。
悪魔は、人々の心や魂を掴みたいと思っている。劇中だと、ラストでエリザベートが「諦めろ。真の純心を持つ者には、悪魔が付け入る隙はない」ってセリフがあるので、本作の悪魔の意図も聖書的なそれとだいたい一緒と思って良さそう。
城と街を混乱させるナターリエとフランツィスカは利害が一致します。悪魔がナターリエを助けて魔術を働かせたというのは解釈の余地があるのではないでしょうか。

このようにナターリエは、悪魔の力を借りて目的を達成しますが、後半ではそれを否定的に扱っています。
ナターリエがマーゴット達と処刑場に来た時、そこにはカタリーナに殺された処刑人の死体が。3人は驚き、マーゴットは「正真正銘の魔女だったのよ!」というものの、ナターリエは訝しんでいる様子。
「あれはでっちあげだった。本物の魔女なんかいるわけない」とでも言いたそうに。これが魔術の否定その①です。
さらにその後、城の地下道を逃げるカタリーナ達を、マーゴット、エミール、ナターリエが追いかけます。この場面では、バーバラに「何故か少人数でやってきた。あなたは自らの力に自信があり、何かあれば地図をいつでも持ち出そうと思っていた」と、オスマン帝国の密偵であることを見破られます。その後、ナターリエはエミールを斬ります。
ナターリエは処刑場の凄惨な場面を見てもなお、魔女を否定し、しかも自分の実力を過信していた(魔術の否定その②)。この態度もやはりナイトメア・アリーのスタンと共通します。

その後、ナターリエはガラリンに殺され、「それまでに得たものを全て失う」ことになります。
この舞台はこのようにナターリエ視点で観ると、魔術を否定し、魔術のしっぺ返しを食らう話とも読み取れます。もちろんそこは余談であり、メインテーマではありませんが、作り手の意図はともかく、そう読み解ける余地があると私は感じました。

私は信濃宙花推しなので、ナターリエに注目して見てました。
劇というか、史実としては、その後にオスマン帝国は破れ、こちらも「それまでに得たものを全て失う」わけで、オスマン帝国目線だと、全くナターリエはなんて失敗をしてくれたんだって感じです。
ただ、このほかも、魔女の描き方とか見ると史実に沿っていて、ファンタジーテイストの舞台であると同時に、歴史絵巻的な楽しさもあると思いました。

舞台は明日で千穐楽。楽しんでこよう( ・ω・)


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