見出し画像

文章が書けない。この記事は3624文字です。

2024年7月18日

・何も書けないままここまで来た。書けないことが日常になった。今まであったはずのなにかが欠けてしまったのだが、それがなんだったのか本当に思い出せない。言葉自体は以前よりかなり濃く自分の中にあると思う。でも、それをまとめることができなくなったのだと思う。書けないことは、すっきりするための方法を1つ失ったという意味では残念だが、それによって絶望はしていない。今の自分は書けないだろうなと、腑に落ちる感覚があるからだと思う。1月に引っ越しをして仕事を始めてからこの6か月間、渦中は幸せだと思っていたが、振り返ってみたらかなり苦行だったなと思う。地獄というにはのっぺりとしているけれど、のっぺりとしているからこそそれを苦痛だと定義することが憚られて、そういう憚りがあったから気がついたら自分の心の一部分が反応しなくなっていた。

・心が死んだとは書けるが、心が壊れたとは書けないなと思う。思い当たるような衝撃があったわけではない。まあそれはいいんだ。

・私は私のこの文章の感じを、今は嫌悪している。私の文章だから嫌悪しているわけではなく、同様の文章全体を嫌悪しており、同時にそれはほとんどの人が書く文章を嫌悪しているということでもある。言葉が浮遊している。現状を見据えて緩やかに死んでいるような文章を書くやつを嫌悪している。より正確に現状を見据えて苦しんでいるものだから、それが本当のように思ってしまうが、実際はほんとうではない。より正確に言うと、本当のなかの1つであり、それだけが本当ではない。信じたらそれが本当になる。信じ方のセンスの問題だと思っている。真っ白なキャンバスに何を描いてもいいが、つまらない描き方をすると終わる。私の最近の文章の感じは、かなり終わっている。そして大抵の人の文章も終わっている。そんなことをしていたらそのまま死ぬだろうよ。

・終わっているやつがそのまま存在することを許せないと言い始めたら、それこそが終わっているのだが、今の私はそれを言いかねない。許せないことばっかりだ。こうあるべきから永久に抜け出せない。あらゆる人、組織、現象、生命を見限っている。こうあるべきから逸れているから怒りがあり、怒りをぶつけてもしょうがないから、根本では見限っているのだ。その怒りと絶望はなにより私に向かう。なにより私が針のむしろに常日頃から立たされている。それがわかっていてどうすることもできない。表面上では許そうとしているが、そもそも許していない状態がベースで、なにが鎖で縛られているのかを認識すらできていないので、なにがなんだかわからないまま苦しい状態が続いている。


・以上の内容には全く関係がないが、私は半年後にアフリカに行くことにした。先日、尊敬している方とお話しして、なんかアフリカにいこうってなった。私はつまらないから死んでいた。表面の私は穏やかに日々を送っているように見えて、内側はほぼ完全に死んでしまったのは、多分つまらなかったからだと思う。今までの私は、過去についての言語化が済んだらアフリカに行こうと思っていた。でも、半年待ってやらなかったのだからもうやらないなと思った。私は、言語化をしなければならないものだとずっと思っていた。言ってしまうと、別の尊敬している方(占い師)に占ってもらったときに、しがみついてでもやる必要があるという風に教えてもらったからだ。だから、なんとしてでもやらなければならないし、自分はいつか言語化ができるようにやる気スイッチが入る瞬間があるだろうと思っていた。でも、少なくとも今は言語化をせずに先に進んでも、幸せになるということを決めた。決めてその通りに進めばそれが正解になる。アフリカに行くのだと思うと体温が上がる。とはいえ、本当に本当にアフリカに行きたいのかというと、そういうわけではない。アフリカといっても広いが、そのうちどこに行きたいかも定かではない。(候補はいくつかある)でも、私はやりたくないこと以外をなんでもやることを改めて決めた。やりたいことなんてそうそうないし、本当にやりたいことのみをやるとしたら、自分の想像の範囲内でしか世界は展開されないと思う。

・やりたいより、つまらないと飽きたの方が重要だった。「やりたくないこと以外なんでもやる」と「やりたいより、つまらないと飽きたの方が大事」は何度でも刻み込みたい。自分の心に従うことは、やりたいことをやるのみではない。むしろ、やりたくないこと、そして飽きたことを認めて離れることの方が心のままに生きようとしたときに資質が問われる部分だと思う。

・ここで私は葛藤していることがある。それは、つまらないと飽きたで環境を変えまくったら憔悴するのではないかということだ。これは本当に難しい。難しいという言葉は罠だ。ここで私は問われている。「人生は穏やかで小さな幸せがあるがそこそこにつまらないものだ」という生き方をするか、「最高を求めて血まみれになる」という生き方をするか。これは本当にどちらでもいいと思う。どちらが正しいとか間違えているとかはない。でも、私は、なにかを子どもに説くとしたら、「最高を目指していろいろな世界に潜りなさい。最高に到達して、それまでうまくいかなかったたくさんのことを面白おかしく語れるようになりなさい。自分の命のために生きるのではなく、自分の命のために死になさい。」と言いたい。間違えても、この言葉を今の生活の中では言うことはできない。「好きなことをなんでもやりなさい」と自らの身を省みず自らの人生と矛盾する言葉を平然と言う大人にはなりたくない。そういう大人は、子どもに可能性の光を見ている。自らの手にも同じものはあるはずなのに、それを無かったことにして、子どもに偶像を見る。自分の可能性を捨てていることにも気がつかずに他者に自分の持っていたはずの可能性を期待の形で押し付けるのは惨めだ。


・それでも、住環境が短期間で変われば、職を短期間で転々とすれば、自分は精神的にかなり参ってしまうことはすでに学んでいる。今の環境をどのぐらい残すか、アフリカに行った後は仕事をどうするかなど、悩んでいることは多い。今の生活から抜け出して最高を探しに行きたいが、下手に動くと焦燥感と睡眠不足のダブルパンチで終わる。それすらも甘えなのか。いや、甘えという言葉は違うか。もしかしたら、布団で眠ると落ち着くとか、ご飯を食べるとおいしいとか、そういう感覚を追い求めることを忘れてしまっているのかもしれない。なんか、だんだん書いている言葉がどのような意味を持つのかよくわからなくなってきた。頭がぼんやりとする。


・文章を書いても何も変わらないな。


・やりたいに大きな理由はいらないということも書きたかったが忘れていた。文脈の中に登場させることが難しかった。文脈を守らなければならないという強迫観念がそもそもいけないのかもしれない。強迫観念と強迫観念と、それを否定する強迫観念と……みたいな感じで、強迫観念ばっかりだ。もうアフリカに行ってすべてどうでもよくなりたい。アフリカに行くために週5日働こうと思っている。アフリカに行こうと決めた瞬間に週5日働こう!とやる気が出てきたのだから、なんだか本当にすごいと思う。私の文章は果てしなくナンセンスだが、アフリカに行くことは楽しみだ。それは純粋な感情だ。


・いつかこの文章の先に行きたい。こんな泥を煮詰めたようなゴミ文章は嫌だ。雰囲気がゴミ。もっと清涼感のある文章が書きたい。



・そういえば、ある人の文章の雰囲気がどうにも馴染めないと思っていたが、最近ふさわしい言葉を見つけたので書こうと思う。「自由」という枠組みについて書いている文章だと思ったのだ。自由が漂う文章以外の文章が書けないのだとしたら、それは多分、「自由であれ」という強迫観念があるのだと思った。自由について書いているのに、なぜか強迫観念を感じるのが奇妙だとずっと思っていた。まあそれは他の人の話だから、その人がどうあろうとも自分のあり方とは全く関係がないのだけれど。


・最近はいろいろなことがあったが、何も書いていないね。再びザリガニを大量に捕獲して食べたり、友達(といっていいのかわからないけれど)の誕生日に動画をとって送ったりしていた。その日に尊敬する方(その友達と共通の知り合い)とお話ししてアフリカに行こうと決心したから、むしろ私の方がいろいろといただいている可能性はある。


・文章が本当にうまく書けていない。なにもまとまっていない。でもいいんだ。投稿しよう。


・写真は、尊敬している方とお話しした翌日、アフリカに行くことを完全に決意してから見上げた空です。太陽が雲にうっすらと隠れてまわりに光が広がる様子は何度か見たことがあるのですが、青色の光が出てくるのは初めて見たので、なんかいいことがあるのだろうなと思いました。


・さようなら



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?