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Kaiserreich進捗報告135 ウクライナ

東欧開発担当のMotaroです。余計な前置きはいいでしょう。次回のアップデートではウクライナのリワークが実装されます……これにて東欧リワークは完成となります!

Kaiserreichにおけるウクライナ史

1917年2月革命以来、ウクライナは歴史上はじめて独立共和国となった。共和国そのものはすぐに崩壊したが、ウクライナのナショナル・アイデンティティにおける快挙だった。ウクライナ人を多く抱えるロシア軍現地部隊は共和国に合流し、ウクライナ中央ラーダは大規模な改革を開始した。しかしボリシェビキ軍は誕生したばかりの共和国に侵攻し、最終的に中央同盟軍がファウストシュラーク作戦でウクライナを占領した。ドイツはオーストリアを外す形でウクライナの新体制を構築し、「ヘーチマン」パヴロー・スコロパツキーのクーデターを影で支えた。当時のドイツ軍高官や保守派の政治家は社会主義色の強い人民共和国に疑念を抱いており、スコロパツキーのような保守派の軍人をより信頼していた。

スコロパツキーは前政権の改革をすべて差し戻し、すぐに独裁体制を敷いた。これに反発したのがボルシェビキ、各地の共和派残党、それにネストル・マフノのアナーキスト勢力だった。1918年冬から1919年のドイツへの大規模な穀物輸出も国をますます不安定化させ、ヘーチマン政権は国内の安定確保に腐心した。ウクライナが安定を取り戻すのはようやく1920年になってからで、ヘーチマンは配下の将軍に義勇兵を与えてドン戦線のロシア白軍を支援させた。この白軍支援はウクライナの主権承認をちらつかせたドイツからの圧力によるものだった。

1920年、それまでの1918年の暫定憲法を下敷きに正式な憲法が制定され、ウクライナの政治制度が固まった。ヘーチマンには幅広い権利、ソイム(議会)への明確な優位、執政府の強力な行政権が付与された。

1920年には社会主義系政党の選挙参加が非合法化され、以降も締め付けが強化された。また政府も明らかに保守層に肩入れしたが、それでも中央議会の選挙はおおむね公平に実施された。

こうして1936年まで続く保守政権が、ヘーチマンの下で始まった。以後「ヘーチマン国家」制は、ウクライナ独自の政体としてさらなる発展をみることになる。

多くの親露派、それにロシアとの統合を求める勢力は、1920年代を通じて支持を失った。この原因はウクライナの独立が続いたこと、スコロパツキー自身がロシアとの友好関係を維持しつつも、それ以上の協力関係までは認めなかった点にある。この時期に多くの親露派がウクライナを出国したが、それでも大多数は国内にとどまり、ロシアとの協力を求めるロビー団体を設立した。

このような親露派の活動をよそに、ウクライナは独自の言語・文化を推進し、ナショナル・アイデンティティの強化、またヘーチマンへの支持強化に務めた。ウクライナ語は政府と教育の場における公用語となり、またロシア語、イディッシュ語、ポーランド語、その他の少数言語にも第二公用語の地位が与えられた。識字率は大きく上昇し、女性の権利運動も広がりをみせた。ウクライナ正教会は1920年に独立を宣言した。1927年の全ウクライナ正書法会議で、ウクライナの文語が制定され、キリル文字を使った「キーウ正書法」が第一次正書法に定められた(史実では当時のウクライナ・ソビエト社会主義共和国の首都を取って「ハルキウ正書法」、またウクライナの教育大臣ミコラ・スクルプニクから「スクリプニク正書法」と呼ばれる)。またラテン文字で書かれた第二正書法も定められた。

このような民族ルネサンスの中で、ヘーチマンの念願だったコサック階級も復活した。愛国的で独自の武力を有する地主階級を、ヘーチマン国家の理想形として称揚するねらいがあった。

1925から26年にかけて、反ヘーチマン運動は新たな広がりを見せた。地下組織「社会主義革命戦士党」が大規模なサボタージュ・ストライキを展開し、とうとう当時の首相(オタマーン)フェディル・ルイゾフブが暗殺される事態となった。政府の弾圧は苛烈を極め、残存する社会主義団体はすべて解体された。こうして蜂起は失敗し、ヘーチマンは自らの地位の危うさを改めて認識した。この事件によって、ヘーチマン政権の自由化運動は絶望的になった。多くの社会主義指導者はオーストリア帝国内のガリツィアに亡命し、首都リヴィウはウクライナ共和運動の中心地となった。ヴィルヘルム・フォン・ハプスブルク(ワシル・ヴィシヴァニー)は墺宇親善協会を設立し、以後協会は共和派の隠れ蓑となり、ウクライナ国内での反ヘーチマンプロパガンダを実施する。

国内でも、ヘーチマン政権の進める大規模な農地改革や工業化政策が軒並み失敗していた。工業化リソースの不足、保守派、各種ロビー団体、反農地改革派で意見の一致が見られなかった点が原因だった。こうした失敗を経てウクライナは「より手頃な」成果を追及するようになり、農業製品輸出の利益を元手とした都市と地方の近代化政策に重点を置いた。

1920年後半、右派から不満の声がささやかれるようになった。イェウヘン・オナツキーユーリ・リーパミコラ・スティボルツキーなどの急進右派活動家は「ウクライナ民族主義連盟(LUN)」を結成、「ヘーチマン的保守主義」を克服した現代的ウクライナ民族主義の推進を掲げた。同じころ、左派や民主派団体も独自の支持基盤を確立した。こうした中で農地改革も幾度か試みられたが、地主層はヘーチマン唯一の忠実な支持層であり、思い切った行動は難しかった。政府は大規模な工業化計画に軸足を移したが、これも似たような理由で失敗した。

1932年に選挙が開かれ、ヘーチマンは穏健派のドミトロ・ドロシェンコを首相に任命した。元急進民主派のドロシェンコの起用には、保守層からの信任を維持しつつ野党にアピールする狙いがあった。ドロシェンコは農地改革を公約した。だがドロシェンコによる議会各勢力への働きかけの成果はなく、改革は遅々として進まず、不満が高まった。ヘーチマン国家は国民の要求を満たせるだろうか?それとも制度の根幹は硬直し、権威主義的で、改革など不可能なのだろうか?

1936年のウクライナ

1936年のウクライナは非常に権威主義的な(しかし独裁でない)体制だ。パヴロー・スコロパツキーを頂点とする制限民主制が敷かれ、その中心与党が保守勢力「ヘーチマン連立」だ。連立の中心が「ウクライナ民主農業党(UDKhP、イデオロギーは権威的民主主義と社会保守主義)」と「ウクライナ農業国家連合(USKhD、権威的民主主義)」だ。さらに親ヘーチマン派の無所属議員や、地主・実業家層のロビー団体「VSZV」と「Protofis」(どちらも市場自由主義)もヘーチマン政権を支持している。反対派の中心勢力が「ウクライナ急進民主党(URDP、社会自由党)」で、それ以外の左派政党はすべて非合法化されている。

ウクライナは経済・軍事の面で地域大国であり、特にミッテ・オイローパ圏では最大級の経済大国でもある。国の介入政策とドイツ・オーストリア両国の企業投資により、独立から20年で飛躍的な経済発展を遂げた。しかしドイツはウクライナを農作物や鉱物資源の生産国とみなしており、そのためウクライナ国内の工業開発は停滞し、工業生産高もあまり高くない。

またこうした好景気を経験しながら、貧富の格差は縮まらずにいる。中でも農村部の貧窮は目に余る状況だ。

一見すると安定しているスコロパツキー政権も、その内情はずっと脆い。1917年から求められている社会改革はほとんど進んでおらず、ヘーチマン政権内部のさまざまなエリート団体によって阻まれている。このため国内の農民や労働者は急進化し、政権の腐敗と無為無策に不満を募らせており、それに乗じてリヴィウのウクライナ人共和主義派・社会主義派がますます扇動している。

ドイツ市場の破綻によって、ウクライナの輸出主体の経済は途端に立ち行かなくなってしまう。過剰生産された穀物や食料品は買い手が付かず、大量の在庫となってしまう。政府の対応は救済法の制定としてゲーム内で表現され、独自の議会システムを通じて可決させる必要がある。法案の制定はヘーチマン民主制の存続を左右する。もしも議会がふたたび打開策を出せなければ、さらなる専制が待っている。

ブラックマンデー後のNFツリー
対策NFの一例

法案を制定できても、問題をある程度和らげたにすぎない。この機に乗じて共和勢力が動く。共和派と社会主義派が団結して「全ウクライナ民主運動(VDR)」を結成。ヴォロディミル・ヴィヌチェンコシモン・ペトリューラなど、ヘーチマン体制下で政治活動を禁止された大物共和政治家たちが指導者となる。ウクライナ各地でゼネストや農民蜂起、軍の離脱、反対運動との接触が始まり、ついには反ヘーチマン蜂起が勃発する。

反乱ディシジョン。ヘーチマン側と共和派側で分かれており、この画像は共和派側。

一連の反乱は二つの国家による内戦ではなく、制限時間付きのミッション形式で進む。ドイツはいつまでも静観せず、いずれ帝国協定はヘーチマン側で大規模介入を実施し、反乱軍の拠点を粉砕してしまうだろう。そのためVDRは介入される前に行動し、スコロパツキー政権に攻勢をかけて麻痺させなければならない。もしも反乱軍がキーウを確保できれば、形勢は一気に逆転する。ヘーチマン政権は崩壊し、ウクライナ人民共和国が復活する。

反乱が成功すれば、ドイツと共和国政府は交渉を開始する。ドイツはウクライナ新政権にいくつかの条件を突きつける可能性はあるが、失脚したヘーチマンを支援するよりは新政権との協力を選ぶ。また共和派政府はウィーンに接触してオーストリア陣営に加盟することもできる。どちらにしても、ウクライナは中立ではいられない。大国との同盟がなければロシアによる侵攻は自明の理だからだ。しかし一部のルートでは、第二次世界大戦開始後にこの状況を変えることもできる。

ヘーチマン側の反乱ディシジョン

一方のヘーチマン政権側のディシジョンでは、議会と軍のどちらのアプローチ方法を採用するかによって変わってくる。議会はVDRの分断工作に焦点を当て、反乱終結後にヘーチマン政権がより安定する。軍部、それに治安機関の強硬派は徹底的な弾圧をおこない、反乱の終息がより早くなる。どちらのアプローチを採用したかによって、その後のヘーチマン体制の政治方針が変わってくる。

反乱NF

内戦でいずれかの勢力が勝利すると、全ルート共通の農地改革・工業化政策システムが解放される。体制が転覆するか、あるいは反乱を鎮圧できれば、改革を求める声が一層強くなる。政府は2つの大計画を同時に進めなければならない。農地改革はウクライナの政治・社会を左右する課題だ。新たなに制定された工業化政策も、将来のロシアとの対決を生き抜くには必要不可欠だ。

農地改革ディシジョン


こちらは工業化ディシジョン

ゲーム内では、プレイヤーは制限期間内に農地改革ポイントと工業化ポイントを獲得し、最終スコアとルート、さまざまな選択肢に応じて報酬が得られる。基本的に共和派ルートは農地改革に有利で、ヘーチマン体制ルートは工業化を重視しているが、絶対的な縛りではない。またヘーチマン体制ルートでは、VSZVやProtofisとの連立を続けるかどうかを選択できる。続けた場合、工業化ディシジョンのコストが減少するが、代わりに政府への支持と安定度が下がる。

工業化ディシジョンはすぐに大きな効果を得られるが、農地改革が失敗すると政治的に致命傷となり、過激な勢力が権力を握る。共和国では戦士党革命運動が、ヘーチマン体制ではウクライナ民族主義連盟が権力を握る。

戦争と軍

ロシアの侵攻は第二次世界大戦と同時期、およそ1939年から40年頃に発生し、ウクライナとロシアの関係は一連のイベントで表現される。基本的にウクライナが万全の状態で準備を徒と得ることはできない。地域大国のウクライナは序盤が一番難しく、その後たびたび反攻を重ね、最終的には大規模反攻を仕掛けて失った領土を取り戻すことになるだろう。もしもウクライナ東部の平原を守り切ればければ、工場をドニエプル川より西に疎開させ、川沿いに強固な要塞線を築くこともできる。

軍事ツリー

軍事ツリーは左右のイデオロギーに応じて二つのルートに分岐し、どちらもさらに選択肢が分かれる。また主要な同盟国がドイツ、オーストリア、インターナショナルまたは社会主義ロシアの場合はそれぞれ独自のツリーが解放される。

ヘーチマン国家ルート

独裁制(父権的専制主義)

ヘーチマンがVDRを退けて、なおかつ“Victories of 1919”から続くNFを“Mistakes of 1925”以降のNFよりも多く獲得していると(または議会が救済法を制定できない)、ヘーチマン国家建国連合(Soiuz Hetmantsiv-Derzhavnykiv)がウクライナを支配する。SHDは文官や将校、治安機関関係者の集まりで、1925年の苛烈な取締を支持しており、ウクライナが抱える問題の原因は社会主義派とリベラル派の影響力にあると考えている。「真の愛国者」からの支持がなければ、ヘーチマンは国賊に対処できないというのがSHDの思想だ。こうしてスコロパツキーの後ろ盾を得て、ヘーチマン体制支持者のタカ派たちは自己クーデターを決行、穏健派のドミトロ・ドロシェンコを解任し、議会を「一時的に」閉鎖する。スコロパツキー支持派とともに、内閣は議会の権限を代行し、スコロパツキーの側近であるボリス・ホムジン(Borys Homzyn)が新首相になる。

SHDはウクライナ国の集権化をさらに推し進める。政治的自由を縮小し、コサック議会は真のイデオロギー的民兵集団にして「影の政府」となる。SHDの中心人物は事実上の指導者ボリス・ホムジン、そして大コサック・ラーダ議長のイワン・ポルタヴェツ・オストリニツィアだ。2人はSHDの権力獲得のために手を組むが、政権を握ると、ヘーチマン国家の将来像をめぐって対立する。ホムジンはテクノクラートによる権威主義体制を目指している。多くの強行手段も一時的なものと考えており、ウクライナが内外の脅威から解放されれば支配を緩めるつもりだ。

一方ポルタヴェツ=オストリニツィアは恒常的な国家独裁を目指し、コサック階級と自身の権力拡大に力点を置いている。以前からコサック・ラーダは法執行機関、軍の予備戦力として機能しており、ウクライナ人アイデンティティ確立の象徴となっている。ポルタヴェツ=オストリニツィアの下、コサック制度は拡大し、ウクライナのイデオロギー・戦時体制の中心となる

ホムジンの目指すSHDは安定度と支持率が高く、ポルタヴェツ=オストリニツィアだとより包括的な農地改革が実行され、追加のボーナスを得られる。

ウクライナ農業国家連合(権威的民主主義)

ヘーチマンがVDRを退けて、なおかつ“Mistakes of 1925”から続くNFを“Victories of 1919”以降のNFよりも多く獲得していると、反乱終結後にようやく全国選挙が開かれる。ウクライナには政治的無関係が広がり、ヘーチマン連立が再選する。しかしUSKhDはイデオロギーを強化し、多くの人員を選挙に動員することで、前回よりも議席を伸ばす。それでも議会では絶対的多数には届かないが、スコロパツキーはUSKhDの勢力拡大を認め、事実上の指導者であるシェルヒー・シェメットを新たな首相に指名する。

USKhDはウクライナ政界でも小規模で、あまり大きな力を持っていない。そのため政権を維持するのは難しく、反乱後の国を統治して成果をあげる必要がある。

成功すればメインのNFツリーが解禁され、USKhDは階級国家と反議会主義を目指す。ヴャチェスラフ・ルイピンシキの著書をもとに、伝統に根差した「階級制」ヘーチマン国家を目指す。その主張は政治権力は「生産者による貴族制」に握られるべきであり、無力な民主制と無駄な独裁の間でバランスを取るべきというものだ。ただシェメットはより現実的な政治家で、イデオローグであるルイピンスキとは違う。

USKhDはウクライナの社会を大きく変えようとするが、反対派も多く存在する。これを反映して、USKhDルートでは安定度と戦争支持率が時間経過で減少し、150日ごとに減少幅が増える。“Classocratic Principle”以降のUSKhDルートのNFは、一定の条件下で追加の効果が得られる。そのためプレイヤーは条件を満たして追加のボーナスを重視するか、早急にNFツリーを取得してマイナス補正の国民精神を取り除くかを選ぶ必要がある。

USKhDルートのツリー

農業民主党(権威的民主主義/社会保守主義)

ウクライナ農業国家連合が成果を挙げられなければ、シェメット政権は崩壊し、ヘーチマンから解任され、USKhDは小規模政党に逆戻りする。農業民主党(UDKhP)が次の与党に就任し、キーウでは次の指導者を選ぶべく会議が開かれる。ここでは現実主義者で農民運動の指導者の「ヘーチマンの『悪しき魂』」イホール・キスティアコフスキか、雄弁家で強硬な民族主義者の「ヘーチマンの『過激な扇動家』」ミコラ・ミフノフスキのどちらかが新首相になる。

反乱はウクライナの社会に大きな傷跡を残し、改革が求められる。USKhDは政権に就くと、ウクライナの民主化を目指して改革を進める。プレイヤーは執政府からの抵抗を退けることで、政治力獲得値、安定度、研究速度が向上する。議会改革が成功すれば、戦後に比較的自由な選挙が開かれる。


UDKhPルートのNFツリー


UDKhPとUSKhDの経済ツリーは共通で、農地改革を進め、VSZV/Protofisとの協力/決別に応じて工業化を進める。

ヘーチマン国家ルートのNFツリー全体図

共和派ルート


共和国選挙ディシジョン

共和国の成立後、シモン・ペトリューラが暫定政権を樹立し、選挙が開かれる。参加する政党は急進民主党(社会自由主義)、社会民主労働者党(社会民主主義)、評議会=革命ブロックとウクライナ社会主義革命党(急進社会主義)だ。選挙の結果はいくつかのイベントで決まる。選挙で公約を提示し、当選後は制限時間以内に公約を達成する必要がある。

人民共和国は3つの政党ごとに分岐する。細かな違いはあるが、基本的には改革派の議会主義ルートと、革命ルートに大別される。

また共和国ではガリツィアの帰属をめぐってオーストリアと交渉できる。交渉の推移はポーランドの共和派ルートとほとんど同じで、ドナウ=アドリア同盟に加盟しているとより有利な結果が得られる可能性が高まる。

急進民主党/社会民主労働者党(社会自由主義/社会民主主義)

社会自由派(オレクサンドル・シュルヒン)と社会民主派(イサーク・マゼーパ)が当選した場合のウクライナ共和国はおおよそ想像通りの内容となり、議会制民主主義や社会福祉、経済への介入を進める。もちろんそれぞれの派閥に特色がある。急進民主党は改革進歩派で、いっぽうの社会民主党は修正社会主義者だ。どちらも独自の視点で農地改革、工業化、国家改造や国政を実施する。たとえば急進民主党は国家資本主義ドクトリンを支持し、社会民主党はより「市場重視」で若干の社会主義的政策を推し進める。

また急進民主党はドイツの中欧経済圏を超えた通商拡大を目指す。拡大は南の国々か、あるいは少し西の国でもいいだろう。

一方の社会民主党は国内の問題に注力する。ほかの政党よりも協同組合運動を重視し、また指導者候補も3人ほど存在する。

評議会=革命ブロックとウクライナ社会主義革命党

ヴォロディミル・ヴィヌチェンコ率いる評議会=革命ブロック(R-RB)とウクライナ社会主義革命党(UPS-R)はより過激で、革命左派寄りの思想を徹底的に実現しようとしている。そしてこの2つの派閥は、第二次大戦中に急進社会主義になりうる。選挙に勝利した革命ブロックは社会民主労働者党と連立を組み、社会主義者としての本性を隠してベルリンの疑念を躱そうとする。それでも革命ブロックの政策は、農地改革も含めてかなり挑戦的だ。

急進的な政策を進めすぎると、場合によっては連立が崩壊してUPS-Rの分派による社会民主政権に戻ってしまう。連立崩壊の詳しい流れは後で詳しく解説する。

だがヴィヌチェンコ政権が試練を乗り越え、ドイツが弱体化すれば、革命ブロックは陣営を乗り換えることができる。陣営を抜けてドイツとロシアの両方を相手取ることになるが、なるべく国力を高め、インターナショナル陣営の勝利を待ったほうがいいだろう。

社会主義への変革を完了すれば労働評議会で選挙が開かれ、ヴィヌチェンコの革命ブロックと、ニキフィル・フリホリフ率いる社会主義革命党が与党になる。

どちらが与党になっても、選挙をしたからには有権者の期待に応えなければならない。失望されると連立が解消する恐れもあるが、政府そのものが転覆することはない。

共和国ルートのNFツリー

ウクライナ民族主義連盟(国家大衆主義)

ヘーチマン政権が農地改革の公約を実現できなければ、その不満はミコラ・スティボルツキー率いる急進派組織、ウクライナ民族主義連盟に集まる。連盟は国粋的知識人の集まりから、ルーマニア鉄衛団の方法論を取り込みつつ、農民や学生にまで広がる一大運動に拡大、遂に軍の大部分を味方につける。中心人物のイェヴヘーン・コノヴァーレツィ将軍は、ヘーチマン政権のイデオロギー的支持者ではない。連盟の要求は増え続け、反ヘーチマン運動がふたたび盛り上がる。かくしてコノヴァーレツィ将軍らのグループが決起し、スコロパツキーを追い落し、連盟と協力して新たな国民共和国体制を作り上げる。スティボルツキーは臨時国家元首に就任し、コノヴァーレツィは最高指導者(Providnyk)に選出される

連盟は「民族政治(Nationacracy)」 思想に基づいて国民革命を始める。階級協調、ウクライナ国政における労働者階級の参画など、有機的理論に沿った社会を建設しようとする。全ての政党は、議会制民主主義が生み出した非有機的産物として全て非合法化される。国家は階級、党、組織、個人の目的や利益を超えた最高権威となる。しかし連盟も一枚岩ではない。軍部、ヘーチマン政権時代の政府高官や保守派からなる「古参派」はより現実的で、スティボルツキーの唱える有機的民族国民革命には関心を示さず、より実践的な方法で国力増強をめざす。これに対抗するのがスティボルツキー率いる「急進派」だ。この対立を制御すると戦後の体制が決まる。

LUN内部の派閥対立ディシジョン

LUNは政権獲得直後、人民共和国ルートと同じようにドイツと折衝し、結果に応じて帝国協定残留やオーストリア圏参加のどちらかになる。LUNもロシアと戦うためにやむなく同盟を結ぶが、満足しない者だって存在している。

ウクライナ独自勢力圏「黒海構想」についてのイベンド
LUNルートのNFツリー

戦士党(サンディカリスム)

共和国が公約したとおりの大規模な農地改革に失敗すれば、今度は左派から反体制派が出現する。オレクサンドル・シュムスキー率いるウクライナ社会主義革命戦士党はもともと共和運動内部の一勢力にすぎなかったが、革命後はブルジョワ共和制への攻撃を強める。農地改革が停滞すると、戦士党は不満を吸収して独自の支持基盤を作り上げる。草の根運動やゼネストなどのサンディカリスム理論を使って共和国の安定を揺るがし、1939年後半に政府を転覆させる。

しかしこの動きはすぐに対応される。ドイツは即座に最後通牒を突き付け、軍事侵攻の準備を進める。ウクライナを無防備とみたロシアも動く。こうしてドイツとロシアはウクライナをめぐって全面戦争に突入する。インターナショナル陣営は対ドイツの側で介入するが、独露の戦争においてウクライナ社会主義共和国はどの陣営にも入れない。もしもロシアが社会主義国家になっていた場合はウクライナの同盟国となるので、かなり難易度は下がる。

戦士党のコンテンツは革命への動員、農地の社会主義化、国内の政治的統合が中心となる。戦士運動は政治や経済をどのように作り上げるかを決めることになる。これを巡っては運動内部でもイデオロギー対立がある。そして一部……ごく一部だが……プレイヤーがいわゆる「文化革命」をおこなう選択肢もある。

いずれにせよ、戦士党ルートのウクライナは大革命戦争に巻き込まれ、ほぼすべての正面が敵に回る可能性もある。勝利する唯一の方法は、ドイツの崩壊と第三インターナショナル陣営との国境接触だ。成功すればウクライナとロシアは講和条約を結び、両国がそれまで占領した地域をすべて獲得する。もちろん、第三インターナショナルに参加したウクライナがロシアとふたたび戦争を再開することも可能だ。(戦士党ルートには、他にも第三次世界大戦を引き起こすNFが存在する)

サンディカリスムルートのNFツリー

質問

戦後コンテンツは?
帝国協定に残留していれば、ウクライナは東部戦線で勝利したのちに傀儡から独立し、それぞれのルートごとの小規模なコンテンツと、戦後選挙イベント、占領地域の中核化が解禁される。連盟と戦士党ルートでは当然大きな戦後コンテンツが用意されている。連盟ではまったく新しいシステムや陣営が解禁され、戦士党は上記の通り新たな大戦の引き金となる。

なぜ親露派ルートがないの?
簡単に言うと、ロシアが目指しているのはウクライナの併合だから。ウクライナが一個の政治的実体と認める(=独立ではない)ことすら、ロシアでは左派を含めて政界や知識人の間では不評なのだ。ロシアは、ウクライナをひとつの国家として承認するつもりは全くないのだから、ウクライナと恒常的な条約を結ぶことは絶対にない。また親露派のウクライナ人は確かにロシアに共感を抱いているが、その大半がゲーム開始時には独立ウクライナを支持している。こうした親露感情はイベントで言及される。親露派はロシアとの平和的共存を目指し、ひいては戦争活動の邪魔をするだろう。例外はウクライナとロシアが正式に同盟を結んだ時で、これは社会主義ウクライナがロシア率いるインターナショナル東部戦線に参加した場合にしか発生しない。

付け加えると、これはゲームだ。親露ウクライナはゲームプレイとしてあまりよろしくない。ロシアからは大きな目標を奪い、ドイツ側もだいぶ不利になってしまう。これは1938年に連合王国復活が可能だった、旧KRのロレンス・クーデターのようなものだ。

それともう一つ、すべてのロシア語話者のウクライナ人が親露派という訳ではない。たとえば、社会主義勢力の支持基盤はドンバス、ハルキウ、ミコライウのロシア語話者の都市労働者だ。またスコロパツキー政権もロシア語話者の地主、エリート層から支持を得ている。何ならスコロパツキー自身もロシア語話者だ。このようにロシア語話者のウクライナ人は、単一の政治ブロックを形成しているわけではないのだ。

ワシルは国王になれる?
いや、しかし彼にはいろいろあるので新しい指導者用ポートレイトを用意した……

何か隠しコンテンツは?
ある。ここで紹介してないコンテンツも多く、残りは君自身の目で確かめてほしい。

最後まで読んでくれてありがとう!最後に戦後コンテンツを除いた全体図をお見せしよう!

そしてこれがアーティスト・チーム謹製の新しいポートレイト群だ!ただ、ここに載せていない将軍や指導者もいる。


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