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『アメリカンクラブの夜』

 この話は2020年3月にトラベラーズノートのウェブサイト「みんなのストーリー」に掲載された旅のストーリーです。現在も掲載されています。そのままここに掲載いたします。現在も「みんなのストーリー」に毎月一作旅の話を書いています。これは掲載第149作目です。

https://www.midori-japan.co.jp/post/TRAVELERS/cv/02f6f6f9d376

 同業他社に吸収合併された古巣の航空会社の2020年3月一杯での成田空港撤退を昨夏の報道で知った。

 アジアでは何年も路線の運休と乗入れ地からの撤退を重ねていた。アメリカ路線は成田を離れ羽田に移っていった。

 路線が減れば労働者が溢れる。運休の報に接する度にかつての仲間たちが慮られた。あの「9.11」のあと間もなく失業した当時の自分の状況が都度思い出された。

 撤退の報道後しばらくしてLINEで客室乗務員のN先輩と話をした。話の流れで大先輩Sさんの話になった。SさんはN先輩のアメリカ路線での機内通訳時代の上司でもあった。

 古巣の航空会社は日本離発着のアメリカ便が日本の航空会社の次に多かった。しかし、アメリカ便には日本人の客室乗務員を乗せていなかった。英語しか話せないアメリカ人がバイリンガルの日本人に仕事を奪われるからだ。

 こちらの事情で英語に不自由する日本人の乗客を蔑ろにはできない。そこで各アメリカ便に一人ないしは二人日本人の機内通訳を乗せることにしたのだった。

 その機内通訳業務の立ち上げに一から関わったのが、「鶴丸」からやってきたSさんだと別の先輩から伺った。

 御主人が欧米の方だったので、その英語のラストネームのSさんでみんな呼んでいた。

 私には目の前に立つと緊張する方が三人いる。常に背筋がピンと伸びていたSさんはその一人。あと二人は自宅に入社の内定を告げにみえた当時の人事部長と作家の故百瀬博教さんだ。

 Sさんのお住まいは赤坂。百瀬さんは若い頃赤坂にあったナイトクラブの用心棒だった。自分が目の前に立つと緊張するお二人が「赤坂つながり」なのは偶然だろうか。

 Sさんの側で仕事をするようになったのは入社3年目で機内販売の免税品の売上管理をするアジア唯一のインフライト・セールスを任されたときだ。

 私が常駐していた乗務員が売上を納めにくるところは、Sさんのオフィススペースがあった機内サービス部(インフライト・サービス)の中にあった。機内サービス部は成田空港の貨物ビル内にあった。

 乗務員とお金のやり取りをするところは両替所の窓口のような作りになっていた。私とスタッフの出入口は機内サービス部のオフィスに通じていた。そこにはなぜか電気ポットがあり、Sさんはよくお茶を淹れにきては軽い雑談をしていった。

 ある日アジアの機内サービスのディレクターに本社からやってきたアメリカ人が着任した。インフライト・セールスの管轄は成田の機内食課ではなくインフライト・サービスだと彼女は主張した。これが正しいと分かるのはその数年後自分がミネアポリスの本社を行き来するようになってからだった。彼女の主張で私の台湾人の男性の上司と彼女のパワーゲームが始まった。

 当時入社3年目の私に副社長の一人から彼女にレポートする(上司は彼女という意味)よう直接電話があった。唖然とするようなトップダウンでゲームセット。私も私のスタッフたちも瞬時にインフライト・サービス所属となった。

 「ゲームセット」の直後、一部始終を見守っていたSさんが私のところにいらして、ニッコリと笑いながら「Welcome !」と言って握手の手を差し出した。まだまだ若手だった私に対するSさんの思いやりとユーモアのセンスに感心した。

 N先輩もSさんの前ではかなり緊張なさったようだ。しかし、伺った逸話はやはりSさんの厳しい中にもユーモアが感じられた話だった。

 数年後私はインフライト・サービス内のアジア全体の機内食を管轄する部署に異動した。そこでの上司は前述のパワーゲームの勝者。いまでも交流がある彼女にはその後大変迷惑をかけながらものびのびと仕事をさせてもらうことになる。ほぼ同時期にSさんも当時帝国ホテルにあったチケットオフィスに異動された。

 1990年代終盤に早期退職制度が導入され始めた。人が去っても入ってこない状態が続いた。私もかつて三人でやっていた仕事を一人でやるようになった。退職時に手元に残った有給休暇は70数日あった。

 早期退職を受け入れた方々の送別会が東京アメリカンクラブで行われた。サッカー日本代表が初めてW杯に出場した年だったと記憶しているので1998年だったはずだ。送られる方々の中にSさんもいらっしゃった。

 アメリカンクラブは企業でも個人でも基本的にメンバーシップがないと利用できない。一歩中に足を踏み入れると都内にありながらそこは完全にアメリカだった。送別会で来ているのを忘れないよう神妙な顔をしたままずっと訪れたかったアメリカンクラブを楽しんだ。

 その五年後に再就職したのもアメリカの会社。入社早々会議でアメリカンクラブに二日間通った。眼前の景色が全く違った。

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東京アメリカンクラブの正面の入り口です。ガラスに映る東京タワーが “東京”を引き立ていますね。

 送別会が終わり赤坂までお帰りになるSさんを途中までボディーガードするよう他の女性の先輩方から言付かった。麻布台から六本木まで外苑西通りを歩いてご一緒した。

 歩いている最中と、途中でお茶をご一緒した際にどんなお話をしたのだろう。思い出せない。間違いなく緊張していた。

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外苑西通り。写真の右側の道を東六本木まで東京タワーを背にして歩きました。あの日も小雨が降っていた気がします。

 十数年前の寒くて天気の悪い週末に見慣れない番号が携帯電話の画面に表れた。ご無沙汰していたある先輩からだった。Sさんが亡くなった知らせだった。あまりにも突然のその訃報に反応できず絶句してしまった。

 その先輩は私がSさんを慕っていたことを覚えていて知らせてくださったのだ。Sさんはご無沙汰しているあいだに体調を崩されていたらしい。

 しばらくその先輩とSさんの思い出話をしたあとで、Sさんを慕っていたアジアの先輩たちにメールで悲しいお知らせをした。ゆっくりお話ができたのはアメリカンクラブでの送別会の帰り道が最後だった。

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Sさんからいただいたカードと絵葉書。このPOSTALCOのポストカードウォレットには二度と絵葉書やカードをいただけない方々からのものを大切に納めています。

 弟が私とは別の航空会社に勤め始めて間もない頃、Sさんがいらした帝国ホテルのチケットオフィスにチケットを届けに行った。同業他社との航空券発行のやり取りは結構あったのだ。

 兄貴がお世話になっているSさんにご挨拶しなければと体育会系気質の弟は思ったらしく、チケットを届け終えるとマネージャーのSさんにご挨拶したい旨を伝えた。人を逸らさないSさんは奥から出ていらして気持ちよく会ってくださった。取り次いでくださったのは私のよく知る先輩の一人。後にチケットオフィス内は少々騒ついたそうだ。

 メッセージが書かれた一枚の付箋が手元にある。弟がSさんにお目にかかった直後に、機内からナイフとフォークを持ち帰ったエコノミーの客が何故か帝国ホテルのチケットオフィスに返してきた。それをSさんが機内食器材管理の私に社内メールで送ってくださった際にそっと添えてあった。

 よく知っている私と初対面の弟から母が見えたのだろう。当時夫を亡くして間もなかった母を慮ってくださったメッセージだった。

 読み返すとSさんが目の前に蘇ってきた。そして不覚にも鼻の奥がツンとした。

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付箋のメモ。この直筆を見るたびに背筋が伸びつつも可愛がっていただいことが思い出されます。

 今回のタイトルはSさんと「赤坂つながり」である百瀬さんのエッセイのタイトルから拝借した。お二人は生きてきた世界が全く異なるが、お会いになったら意気投合したはずだ。双方にご紹介したかったと思う。

 目の前に立つと緊張するお二人に上から見守っていていただいていると思うと日々恥ずかしい生き方はできない。あの世で再会が反省会にならないように生きなければ・・・。

 成田空港撤退に伴ってこの春から生活が変わるかつての仲間たちのこともSさんはきっと見守ってくださっている。いい春になりますように。

追記:

1. N先輩のことは「再会・8」に、パワーゲームに勝ったアメリカ人の女性上司のことは「手作り」に書きました。未読の方は是非。

2. 故百瀬博教さんの「アメリカンクラブの夜」は「不良ノート 下」(文藝春秋)に入っています。恐らく絶版ですが興味のある方は探してみてください。

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3. この2月より過去に「みんなのストーリー」に掲載していただいたス トーリーを古い順番に一日一話ずつnoteで展開しています。興味のある方は、noteのサイトに行って“Hide(津久井英明)”で検索してみてください。


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「おとなの青春旅行」講談社現代新書                「パブをはしごして、青春のビールをーイギリス・ロンドン」を寄稿


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