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『Air Force One』

 この話は2014年6月にトラベラーズノートのウェブサイト「みんなのストーリー」に掲載された旅のストーリーです。現在も掲載されています。そのままここに掲載いたします。現在も「みんなのストーリー」に毎月一作旅の話を書いています。これは掲載第80作目です。

 過日のアメリカのオバマ大統領の訪日は、我が国の首相との高級鮨店での会食の場面ばかりが印象に残った。各所で繰り返し報道されていたので何度もその場面を目にした。その映像を見た方々はそれぞれ様々なことを思って見つめていたことだろう。

 私が思ったのは、大統領の訪日を含めたその一連の外遊に一体どのくらいの人数が関わったのだろうかということだ。極端な話、アメリカの大統領なので、目と鼻の先への移動だとしても、警備等で通常物凄い数の人が動くはずだ。外遊となったらその数は計り知れないだろう。

「何だか決まったみたいっす・・・。」と、航空会社に在籍していた   1998年の一日、オフィスに一足先に出社していた後輩が挨拶もそこそこに私の顔を見るなり言った。当時のアメリカの大統領クリントン氏のAPEC(アジア太平洋経済協力首脳会議)出席に伴う外遊に随行するアメリカのマスコミ向けに、チャーター機のセールスをかけていた本社が正式に受注したとのことだった。

 アメリカの航空会社にはチャーター・セールスという部署があって、こういった売り込みをする場合もあれば、逆に打診を受けて対応をする場合がある。

 例えば、NFL(アメリカンフットボールのプロリーグ)が海外(アメリカ本国以外)で試合をする際等でも、受注すれば対応する。これは調べてみると面白いことがたくさんありそうな気がする。私が在籍時にNFLのチャーター機が数回日本に来た。機内食工場でチームのコーディネーターが夜遅くまで日本からの帰国便に備えて準備をしていたのを覚えている。カトラリーをセットしたリネンをチームのロゴが入ったリボンで巻いていて(巻き方のマニュアルまであった)、余ったリボンをロールのまま貰ったこともあった。

 通常のサービスではメニューにないビールをリクエストに応じてリクエストされただけの数量を用意したが、選手達が搭乗して間もなく離陸前にほぼ全部飲んでしまった。空港の軽食スタンドで同じ銘柄のビールを手に入るだけ手に入れて、機内のコーディネーターに託して何とかしてもらったという現場の話も聞いたことがある。

 話を戻すと、これで当時のクリントン大統領がアジアに来ることは決まったが、どこに立ち寄るかが決まるまで二転三転した。何処へも寄らずにAPECが行われるクアラルンプールのみとか、やっぱり来ないとか等々。最終的にクアラルンプール、東京、ソウル、グアムに立ち寄ることに落ち着いた。ソウルとグアムは米軍基地に駐在している兵士達の激励が目的だったのだろう。東京は当時の官僚達が折衝に折衝を重ねてお寄りいただいたのだろうか。

 私と後輩はその会社のアジア全体の機内食全般(乗客に提供する前まで)を管理していたので、そのチャーター機の乗客と乗務員の機内食の手配と準備を担うことになった

 各航空会社は乗り入れ地それぞれに機内食工場や設備を持っている訳ではなく、乗り入れ地の空港にほぼ隣接している機内食会社と契約して食事を搭載している。その契約している会社に自社のロゴの入った食器などの器材を必要数預けて日々準備してもらっているのだ。これは現在も変わっていないだろう。機内食会社は各国・各都市の各空港に隣接してほぼ複数あり、その売り込みと凌ぎ合いは、当時は熾烈であった。いくつか関わったことがあるので、それについてはいつか書きたいと思っている。

 そのアメリカの航空会社での当時の私の仕事は、機内食のサービスに用いられるあらゆるもの(お皿等食器類から、飲み物、スナック類、乗務員が使うもの、例えば、食事を運ぶカートやオーブン、ポット等々。当時で約400種類あった。)の管理で、アジアの乗り入れ地各所に預けてある全てのものを管理していた。後輩は、おしなべていうなら、私が管理していた機内食サービスで用いられるものを機内のどこに何をいくつ収めるかとその収め方を管理していた。それは機種や食事をサービスする回数によって異なっている。変更も頻繁にあるので結構大変なのだ。食事のメニューに関してはまた別の同僚が管理していた。

 東京は成田のスタッフが担うことになり、後輩はグアムへ私はソウルへ行くことになった。後輩がグアム、私がソウルというのはそれぞれ普段の担当地区だったので、改めて話し合うこともなく決まった。(クアラルンプールもアジアだが、このとき特別何かをした記憶はない。何か特殊な巡路かスケジュールだったのかも知れない)

 そのときの私の受け持ちがソウルからグアムへのフライトに決まって真っ先に電話をかけた相手は、「お会計32万」(https://note.com/nostorynolife/n/n5e8e83673789) に出て来たM君である。M君は当時ソウルでの機内食の準備と機内への搭載を頼んでいたA航空の機内食会社の営業部に在籍していて我々の担当だった。ソウルにチャーター機が立ち寄ることと、これから随時連絡をすることを取り急ぎ話した。

 旧知なのでそれほど多くを語らずに済んだ。仮にその時の大統領の寄港地(飛行機なので寄“航”地でも正しいようです)がソウルではなく、台北やシンガポールだったとしても、私のストーリーに度々登場する今では友人となっている人達がいたので、滞りなく物事を進められたはずである。

 そのときの本社からの指示は、その機内食の会社で用意出来る最高のものを用意することの一点だった。このソウル発グアム行きの場合は、A航空のファーストクラスに用意しているものと同等のメニューを用意してもらうことになった。乗客がほぼ全てアメリカ人であり、出発地がアジアということもあり、魚はメニューから外したと思う(衛生管理は全く問題ないし美味しいのに)。

 それから、ベジタリアン用のメニューも念のため用意したはずだ。私がソウルに入るまでメニューは昼食か朝食かで二転三転した。チャーター機の出発時間によってメニューが変わるからだ。出発時間が午前9時前なら朝食、午前9時から午前11時なら昼食、午前11時以降なら夕食(離陸して安定飛行に入るとお昼を過ぎるため)を用意していた。(あくまでも覚えていた当時の基準で、私は業界から離れて久しいので現在の基準は不明)

 チャーター機の出発時間が二転三転したということは、大統領のスケジュールも二転三転していたのだと思う。そのとき大統領の側にいらした方々も、この二転三転に振り回されたはずだ。当時の私でさえ結構ヤキモキさせられたのだから。

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そしてギリギリまで何が起こるか分からない状態ながらソウルに入りました。そのときのAPECは11月18日・19日に行われたとのことなので、一行はクアラルンプールから東京に来て、ソウル、グアムと廻ったのでしょう。ソウルへは余程のことがない限り、当時の自社便(ソウル着は夜・ソウル発は午前中)での出入りだったので、出入国のスタンプの日付によれば丸々三日間現地に居たようです。このときがこれまでの人生で一番長く韓国に滞在したときでした。では、続きをどうぞ。

私がソウルに入ったときは昼食を用意することになっていたが、万が一朝食になることもあるので、両方用意してもらっていた。東京からの到着便を待って用意しなければならないもの、例えば、不足している食器材とか韓国では手に入らないスナック類や飲料などはほとんどなく、毎日運行していたソウル-成田便に使っているもので賄えた。

 金浦空港の目と鼻の先にあるA航空の機内食工場にM君と私は詰めていた。東京からの機内で使用された食器材など、洗浄にかけるもの以外は一カ所にまとめてもらってM君とともにその消費具合をチェックしてみた。様々なものをかなりの種類(飲み物やスナック類等)、数量を用意していたが、飛行時間が短いせいかほとんど手付かずのままだった。そのチャーター機のために用意されたものなので、未開封のもので使えるものを出来る限りそのとき準備していたグアム行きに利用したが、それでもかなりの量が未開封のまま残った。残ったものは通常のフライトに使い回すことは出来ず廃棄された。もちろん、グアムからアメリカ本土へ帰るフライトでも有効利用してもらおうと出来る限り搭載したが、それでもかなりの量を廃棄した。

 結局早朝の出発になり用意する食事は朝食に決まった。出発は確か午前7時で3時頃にホテルに迎えに来てもらった。11月のソウルは相当な底冷えがしてとても寒かった。当日搭載する食事そのもの以外は前日のうちにチェックしておいたので、短時間でチェックは終わり、チャーター機が駐機しているソウル空軍基地へ向かった。チャーター機も金浦空港からではなく、大統領専用機であるAir Force Oneが駐機されているソウル空軍基地に着陸・駐機したのだった。

 このソウル空軍基地はソウルの中心部から近いところにあった。夜がまだ明け切らず、ハングル文字のネオンが前夜の名残のように此処彼処に光っている街中を通ってしばらく行くと、辺りは段々と物々しくなっていき、少々緊張してきた。まだまだ夜が明けない5時を少々回ったところで基地内に機内食を搭載して来たトラックとともに入った。車から降りて細かいセキュリティー・チェックを受けた。私の場合アメリカの航空会社のIDを持っているとはいえ、日本人なので、パスポートを結構念入りに点検された。念が入ったのは、私のパスポートが夥しい数の出入国のスタンプで一杯になっていたからだろう。(詳しくは「デビュー40周年」             <https://note.com/nostorynolife/n/n6e9ba2a54679> をご笑覧下さい。)

 チャーター機は既にエンジンがかかり、客室の灯りも点いていて、整備のスタッフが念入りに点検をしているのが見えた。機内食を搭載するトラック2台は所定の位置で待機していた。控え室的なところとして充てがわれたのは基地の玄関ホールというかロビーのようなところだった。そこへ入るのにも別のセキュリティー・チェックがあった。

 そこで空港のマネージャーで、これまで何度も会っていたLeeさんから、「これ着けといてね。」と言われて、ハングル文字しか書かれていない紫色のリボンを手渡された。「Leeさん、これ、何て書いてあるの?」と尋ねると(当然我々の会話は英語です)、「ああ、これね。う〜ん・・・さようなら、クリントン大統領・・・っていうところかなぁ〜。」と教えてくれた。

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 これがそのとき手渡されたリボンです。リボン全体は写真左のような感じです。白い丸の部分に押してある緑色の印はセキュリティー・チェック済の印だと思います。写真右はハングルのメッセージの部分をクローズアップしてみました。先日ハングルが堪能な友人にこれを見せて詳しく教えてもらったところ、小さい文字は横1行ずつそれぞれ“クリントン”“アメリカ大統領”“訪韓”という意味で、縦書きの大きな文字は“歓送”の意味だそうです。果たして盛大にお見送りできたのでしょうか・・・。続きをどうぞ。

 M君とともにリボンを着けしばらくすると、機内食搭載開始OKの指示が出た。積み込むだけなので飛行機にトラックを着けてから20分足らずで完了した。

 ここからが私の仕事で、積み込んだものに漏れがないかの最終チェックと、客室乗務員の責任者(当時は “リード・フライト・アテンダント” と呼んでいた。現在は存ぜず。)に搭載されている食事の数や、搭載場所が通常のフライトと異なるところ等を説明したりするのだ。しばらくすると乗務員が乗って来たので、彼らが一息ついたころを見計らって、誰がこのフライトの客室乗務員の責任者かを確認して(女性だった)説明を始めた。乗務員用の食事もお客に出すのと寸分違わないA航空が出す最高の朝食(オムレツかパンケーキのチョイスだったと思う。

 ソウル発でも韓国風のものは加えなかったはずだ。)が用意されている旨を告げると、ニッコリ笑って “ Thank you ! “ と言った。当然ホテルで朝食を摂っている時間等なくそこにいるのだから空腹だったのだろう。

 そんな話をしているうちにマスコミの方々の搭乗が始まった。この間も客室乗務員達はサービスの準備をしながら各々の持ち場のチェックを続けているので、何かあると私が呼ばれるのだ。リネンが見当たらないだとか、グラスはこれで足りるのかとか、その程度の些細なことで呼ばれるのだ。搭乗して来たメディアの人達のほとんどが大あくびを繰り返しながら、不機嫌そうな顔をしていた。着席するやいなや眠りこける人も一人や二人ではなかった。時差を考えたら、きっと寝る間もなく記事を書いたり本国と連絡を取ったりしていたのだろう。これはきっとせっかくの食事が大量に手付かずになるなと真っ先に思った。

 機内食を積み込むまでは誰もいなくてガランとしていて薄ら寒かった機内が、活気を呈して見違えるようになっていた。音楽が流れ、準備が整ってきたのかコーヒーのいい匂いまでいつのまにか漂ってきていた。

 乗客の搭乗が完了し、ドアを出発に備えてそろそろ閉めることになり、乗務員達も特に問題はないということなので、機内から出た。そろそろ午前7時なろうかというのにソウルの朝はまだ暗かった。とにかく底冷えして寒かった。

 チャーター機より遥か後方にAir Force Oneが駐機していたが、機体にペイントされている文字等は暗くてほとんど見えなかった。しかし、暗闇に山のように聳え立っているその堂々とした姿は何となく迫力があるように見えた。その機体には大統領専用車が入り、一説には核爆弾のボタンも機内の何処かにあり、有事には大統領の判断で発射できるといわれている。所謂“空飛ぶホワイトハウス”というところなのだろう。

 そんなことを思っているときに、ふと自分の身が置かれているその状況が不思議に思えた。日本人の私が、アメリカの航空会社のある部分の責任者として韓国の空軍基地の中にいる。胸には一文字も読むことが出来ないハングルが書かれているリボン、加えて話している言葉は英語。自分は一体何者で実際ここは何処なのだろうと思ったことを今でも覚えている。

 機体が滑走路へ向けて動き出した。チャーター機が離陸してしまえば私の仕事も空港からきたスタッフも任務完了で即撤収である。基地なので長居することは出来ないし、する者は誰もいない。遠くに見えるAir Force One の周りには誰もいないし、離陸に向けての準備が行われている気配も全くない。“歓送”するべきクリントン大統領が現れる気配など微塵もない。目の前にさっきまであったチャーター機が飛び立って行き、その周りで動いていた大勢の人達ももういない。

 振返ってみると、“歓送”とハングルで書かれた胸に着けているリボン・・・これは果たして誰に向けてのアピールだったのだろうか? 英語ではなくハングルのみで書かれているし・・・。結局、そのとき空軍基地にいる軍関係者以外の人でセキュリティー・チェックが済んでいるか否かを見分けるためのただの目印だったようだ。

 “歓送”されたのはセキュリティー・チェックの結果危険ではなく、且つこのチャーター機のために働いた我々のような人達で、縦書きのハングル文字の下にある白い円のスペースに捺してある緑色の印がその“歓送”のメッセージよりきっと大切だったのだろう。この大事な仕事が済んだら速やかにこの基地から出て行ってくれという遠回しなメッセージがその“歓送”に込められていたのだろうか。国際的な政治家の外遊だからといってそれは少々勘繰り過ぎかな。

追記:

リボンに記されているハングルの翻訳は友人のKさんにチェックをお願いしました。Kさんとの出会いは、一緒に仕事をした2002年6月の日韓ワールドカップでした。「On The Road 1」(https://note.com/nostorynolife/n/n0ce4d78c7585) のときです。ハングルはもちろん、私が知る限り、フランス語も英語もKさんは堪能です。W杯期間中は日本国内の会場を北から南まで一緒に旅しました。仕事のときは随分と助けていただきました。そのKさんに再びW杯が開催される2014年の今年・・・あっ、これが掲載していただけるなら、それは6月!今回形は違いますが、再び助けていただいたのは偶然とは思えませんでした。それにこの話の舞台も韓国のソウルでしたし。Kさん、どうもありがとうございました。またゆっくり。


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