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『汗・・・。』 (旅先で食べたもの・10)

 この話は2016年3月にトラベラーズノートのウェブサイト「みんなのストーリー」に掲載された旅のストーリーです。現在も掲載されています。そのままここに掲載いたします。現在も「みんなのストーリー」に毎月一作旅の話を書いています。これは掲載第101作目です。

 この話を書き始めたのは二月の初旬。当たったお年玉年賀はがきの賞品との交換も終わり、いただいた年賀状も片付けた。昨今の通信手段の変化もその一因となっているのかいただく年賀状の数が年々減っている。

 私が年齢を重ねただけ諸先輩方も同じだけ年齢を重ねている。その所為かいただく年賀状の数は減っているが一人で二枚くださる方が増えている。不思議と書かれていることがそれぞれ違うので楽しめる。しかし、これは喜ぶべきか否か複雑なところだ。

 年賀状をいただく度に今年こそ久し振りにお会いしなくてはと思って十数年経ってしまった方々の中に航空会社の頃の大先輩で機内食の品質管理をしていらした方がいらっしゃる。日本発のものだけではなく、アジア発のものも管理なさっていた方だった。その大先輩の元々のお仕事は成田にあった自社の機内食工場のシェフだった。私が入社以来お世話になっていた方で、最初はお名前で呼んでいた。組織再編等で一緒に仕事をさせていただく機会が多くなると、いつのまにか私はお名前ではなくシェフと呼ばせていただいていた。それは出張先の海外の機内食会社で、その会社のシェフを初め一緒に仕事をした方々からお名前ではなく、シェフと呼ばれていたことも影響していたのだと思う。

 私のストーリーに度々登場するRichard(直近では「Black Russian」に登場しています)とはよくアジアの出張をしたが、シェフとご一緒した回数はそれに続くのではと思う。覚えているだけでもミネアポリスの本社を初め、上海、高雄、台北、ソウル、バンコク・・・まだあったかもしれない。Richardとシェフはもちろん面識があり、付き合いは私なんかよりもずっと長い。

 私のそもそもの仕事はアジア全体の機内食のサービスで使用する洗浄が出来て再利用するもの(お皿やミールカートなど)と使い捨てのもの(プラスティックカップや紙ナプキンなど)も含めた食器材の管理だったが、1990年代終盤の当時は人手が減っても増やさない時代だったので、アジア各地で搭載する飲料やスナックの手配もその責任に加わった。合わせて持っていた業務全体に目を配る担当都市から搭載される食事のメニューに関わることも後に少々手伝うようになった。その頃からシェフと一緒に仕事をさせていただく機会が増えた。食べものに関する知識が増え、食べることがさらに好きになっていったのも、振り返るとこの頃からだったように思う。

 好天だと二時間を切っていたソウルから成田のフライトでは、エコノミークラスで乗務員が温かい食事を出して貴重な収入源であった機内免税品を売るのは時間が足りなくて大変だった。飛行機がまだ地上にある離陸前の段階からオーブンをフル回転させて温めてもそれは厳しかった。そこでアメリカ人の上層部がお弁当スタイルの温めないビビンパとデザートとしてブラウニーを添えて出すことに決めた。時期は2000年の冬だったと記憶している。食事は配るだけで済み、使い捨ての容器の回収はあっという間に終わり、何とか免税品を売る時間を捻出できた。

 そのビビンパを盛る使い捨ての容器が必要数開始までに間に合えば後は定期的に供給するだけだったので私の仕事は完了だったが、何度か事前にソウルを訪れて詳細を詰めていた。その時の現地の機内食会社で我々を担当したのが「お会計32万・・・」に出てきたMくんである。

 何か新しいメニューを決める際にはなるべく多くの人のコメントが必要らしく、試作品のビビンバとブラウニーをこの時期どれだけ私も試食したか(させられた?)分からない。オフィスで私の周りにいた他のスタッフ達にも試食してもらった。多分私の人生で一番ビビンパとブラウニーを食べた時期だったと思う。試作品を持ち帰って家族にも食べてもらったはずだ。私でさえギブアップ寸前の試食量だったのだから、シェフとコックさん達が食べた試作段階の量といったらなかっただろう。お好みで使ってもらうコチュジャンの味見も半端な量ではなかったはずだ。成田発のソウル行きのエコノミークラスも同じメニューにしたはずだ。そうだ、成田発も同じだった。それで書いていて思い出した試食の量に合点がいった。韓国のコチュジャンは日本人には辛かったので、成田発のコチュジャンは成田で作っていたのだ。

 ビビンバとブラウニーに関わらずメニューの試食の機会は結構あった。今となっては笑い話だが、仕事中に小腹が空いたあるスタッフが「今日は何か試食はないのか?」と私のところに来たときには恐れ入った。

 シェフはソウルのホテルのコーヒーショップのブラウニーまでも最終決定ギリギリまでチェックなさっていた。そういえば、我々の上司(アメリカ人の女性)がシンガポールのリッツ・カールトンのサンドイッチが美味しいと言ったことをシェフは覚えていて、有給休暇でシンガポールへ行き、リッツ・カールトンのサンドイッチを全部制覇してきた話をしてくださった。自分の上司はどんな味が好みなのか、今後どんな要求が来るかに備えていらしたのだと思う。コーヒーショップの給仕達は朝からずっと居座ってサンドイッチを全種類注文した日本人の自分のことを絶対に怪しんでいたはずだと面白可笑しく話して下さった。こちらもそのお話を笑顔で伺いながらシェフはこの仕事が本当にお好きなのだろうなと感じつつそのプロ意識に感心した。

 ソウルで仕事が一段落した一日、私のソウルの大先輩Leeさんが我々を食事に連れて行って下さった。Leeさんは当時ソウルでの機内サービスの責任者であった。連れて行っていただいたお店は焼肉屋ばかりが入っているビルの中にあった。韓国では有名な俳優さんのお店だとか。床はオンドル。オンドルの床に腰を下ろしたときに韓国にいることを実感した。

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数種類あったそのお店のショップカードです。ハングルにローカル感が出ていますね。お店とオーナーのお名前なのでしょうがハングルなので何て書いてあるのか全く分かりません(笑)。「Air Force One」を書く際に協力していただいたKさんに聞いてみようと思います。1枚に有名な俳優であるという店主に名前入りでサインをいただいていました。再訪のチャンスがあったら持って行って店主に見せようと思います(笑)。

 このお店で初めて焼肉を胡麻油と塩のタレで食べた。焼肉のタレ以外知らなかった自分には新鮮だった。日本に帰ったら試してみようと思った。本場の焼肉は食べ慣れた日本のものと一味違い、いい意味で異国に居ることが実感出来た。

 食事も終盤に差し掛かった頃に上品なLeeさんがこのお店にあるとても辛いという麺の話をした。シェフとともに後学のためちょっと食べてみましょうということになった。Leeさんは言うんじゃなかったという表情を上品にしながら、「これはとにかく辛いから全部食べちゃだめですよ」と我々に言った。確かに辛かったが、普段激辛は敬遠する私でも後を引く美味しい辛さで、Leeさんにもう止めておきなさいと止められるほど箸が進んだ。

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これがその麺の写真です。プリントした写真をスキャンしてものなの画像の鮮度はイマイチです。当時デジカメは高価でスマホもありませんでした。 いかかですか、トラベラー各位?辛そうでしょ?(笑)

 シェフには結構辛かったのか汗がお顔に噴き出していた。「Lさん(当時の我々のアメリカ人女性の上司。)に怒られてもこれだけの汗は出ないね〜。」と笑っておっしゃった。

 この話が掲載されたらシェフに手紙を書いて連絡を取ってみようと思っている。その際に今年は年賀状を二枚いただいたことも添えるつもりだ。それをお読みになったときにシェフはどんな汗をかかれるのだろうか。切手はシェフからいただいた年賀ハガキで当たった切手シートから使おうと思っている。



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