見出し画像

『Bell Deskにて・3』

 この話は2017年8月にトラベラーズノートのウェブサイト「みんなのストーリー」に掲載された旅のストーリーです。現在も掲載されています。そのままここに掲載いたします。現在も「みんなのストーリー」に毎月一作旅の話を書いています。これは掲載第118作目です。

 私の従姉の息子がこの2017年の7月よりマニラに1年間赴任することになった。1年間海外に赴任することは以前から決まっていて、赴任先がロンドンかマニラのどちらかで、90%マニラだろうということも聞いていた。

 この6月の終わりに、壮行会というほどではないが、5、6年前に一度私が案内して以来気に入っているという私の行きつけの英国風パブで酒席をともにした。その店が余程気に入っているのか、彼は飲んでいるあいだは終始満面の笑みを浮かべたままであった。その酒席は私の弟夫婦も加わってさらに和やかで楽しいものとなった。国際的な環境で育ってきた彼が、パスポートを携えての海外への渡航は今年の初頭に仕事で行ったソウルが初めてだったということをその席で知った。これは意外だった。彼の叔母さんたち(そのうち一人は私の従姉)がアメリカとイギリスにそれぞれ一人ずついることもあり、海外は幼い頃から身近に感じていたはずだし、彼の二人いる妹たちも学生の頃からパスポートを片手にあちらこちらへ旅をしているからだ。

 マニラ・・・フィリピン・・・1990年代終盤に仕事で訪れたのが、私にとって生まれて初めてのマニラでありフィリピンだった。初めてのマニラの到着は夜中であった。その当時のニノイ・アキノ国際空港の到着ロビーは薄暗くて、怪しい雰囲気が漂っているように感じた。遅い時間なのにやたらと人が多く、到着ロビーに一歩足を踏み入れたと同時に白タクの客引きらしき人たちの餌食になりそうな雰囲気があった。旅人の嗅覚ではないが、ここは危ないかもしれないと瞬時に感じ、肩に力が入った。ホテルか取引先のどちらかが用意してくれた迎えの車に落ち着いたときには、他の旅先に着いたとき以上にホッとしたのをいまでも覚えている。走り出した車のスモークのかかった窓から、到着ロビーでびっくりさせられた人集りを後ろから見たときに、思っていた以上に人が多く、さらに危険を感じてゾッとした。

 初めて訪れたところ、特にその初めてが仕事である場合には、仕事の後の街歩きが何よりの楽しみとなるが、ここでは無理だとそのときに瞬時に諦めた。いま振り返ってみると、決して怪しい人たちが集まっていたのではなく、遅い時間の到着便が重なり、家族の出迎えに来た人でごった返していただけだったのではと思う。しかし、いまと同じように当時もフィリピンでは結構物騒な事件が起きており、ニュースなどに影響されて得た先入観がそう感じさせたのだろう。

 翌朝、迎えの車で取引先へ向かうときに、車窓から太陽の下のマニラの風景を初めて見た。くるくると変わっていく車窓からの景色の中に、歴史が感じられる建物と現代の建物が混在していた。その隙間を、貧困を感じさせるものが埋めていた。これまでに訪れて目にしてきた外国の景色とは完全に異なり、改めて異国にいることを感じた。

 車の朝の通勤ラッシュは結構なものであった。赤信号で車が停まる度に、スナック菓子や花などをどっさりと抱えた物売りや車の窓吹きなどが、危険を省みることなく車と車の間を縫って近寄ってきた。ドライバーたちにどんなに冷たくあしらわれてもお構いなしに信号が青に変わるまでのビジネスチャンスに賭けていた。逞しいなと思ったが、売り子のほとんどが、その時間は学校に行っているはずの子供たちで、裸足の子が多かったことに驚いた・・・というよりショックだった。稀によく売れたとしても、その売り上げは全て自分の稼ぎにはならず、元締めのような人がごっそりと持っていってしまうのだろうな・・・などと想像してしまい切なくなった。

 仕事が終わり、ホテルへ送ってもらう際に通った裏道には一般的な住宅が軒を連ねていた。地域によるのだろうが、そこは結構安普請な家が多かった。子供たちの遊び場は雨上がりの水溜りで、裸足で遊んでいた。水溜りだからだったかもしれないが、サンダルすら履いていなかった。

 裏道から大通りへ出ると、乗っていた車が夕方の帰宅ラッシュの中に放り込まれた。ドライバーのみしか乗っていない自家用車らしき車、後部座席に一人しか乗っていない様子から察するに運転手付きと見受けられる車、帰宅を急ぐ自家用車を持っていない人たちをぎゅうぎゅうに詰め込んだジープニーという乗合バスと何台もすれ違った。ほんの限られた時間の帰宅ラッシュの車中からフィリピンという国の縮図を垣間見た気がした。   

 その日一日で目にした、物売りの子供たち、水溜りで遊ぶ裸足の子供たち、ジープニーにぎゅうぎゅうに詰め込まれている人たち・・・。当時の自分にはフィリピンに対するイメージが“貧困”くらいしかなかった。私が抱いていたイメージや知識も乏しかったが、イメージ通りの景色がマニラにいる自分の目の前にあった。いい意味でその乏しいイメージを覆して欲しかったのだか・・・。

 仕事のみでだが、マニラには何回訪れただろうか。5、6回といったところだろうか。最も多く宿泊したのはマニラホテルである。出張先の宿泊先は基本的に自社のパイロットや客室乗務員が宿泊するところになったので、自然とそうなった。会社で契約しているので、宿泊費がきっと破格だったためだろう。

 天井の高いロビーにあるレセプションでチェックインを終えて、ルームキーを片手に、スーツケースも自分で持ってエレベーターに乗った。充てがわれた部屋がある階に着いてドアが開くと、ベルボーイが私の到着を予め知っていたかのように待ち構えていた。チェックインの際に荷物の運搬は断ったはずなのに。チップをせしめるためにエレベーターから部屋までの数十メートルでも荷物を運ぼうということだったのだろうか。薄暗いエレベーターホールの中で、挨拶をしてきたベルボーイの笑顔が少々不気味だった。マニラに対する印象が、空港に着いた時点で既にネガティヴなものになっていたので、見張られている気がして薄気味悪かった。出だしでネガティヴな印象を抱くと、あらゆる場面で目の前の出来事をネガティヴに捉えてしまうようになり、困ってしまった。

 充てがわれた部屋のベッドが天蓋付きだったのは、マニラホテルが生涯で初めてであった。ロビーの広さと天井の高さも立派なものだったが、ホテルの部屋の天井も結構高かった。ベッドの天蓋に圧迫感は感じないほどであった。テレビのチャンネル数がやたらと多かったことも覚えている。

 仕事で訪れているところでは、朝食はほぼホテルで摂るが、マニラホテルで何を食べたのかは覚えていない。一度だけ私の仕事での滞在と乗務のスケジュールが重なった旧知のシンガポールベースの乗務員と日本食レストランで夕食を摂った記憶がある。どこでも必ず一人で訪れるホテル内のバーの記憶もない。

 この話を書くに当たって、ホテルのウェブサイトを見てみたが、ホテルは結構なリニューアルをしたようだ。広い車寄せとロビーの高い天井が当時を思い出させてくれた。しかし、ホテル名のロゴは変わり、日本食のレストランはなくなっていた。雰囲気の良さそうなバーがあったが、これは恐らくリニューアルを期に出来たのかもしれない。現在の部屋の様子も部屋のランク毎に見ることできた。天蓋付きのベッドは、何種類もあるスイートルームにそれらしきものが垣間見えるくらいであった。

画像1

画像2

ホテルのステッカーとタグです。スーツケースにももちろん貼ってありました。ロゴの色落ちとステッカーそのもの擦り切れ具合に時間の経過を感じました。タグもスーツケースに付けていましたが、ちぎれてゴムだけが残っていました。Philippine Village Airport Hotelのステッカーも左上に見えますが、どんなホテルだったかは全く覚えておりません・・・(苦笑)。

 私は初めて訪れたのが仕事のためだったところは、事情が許せば、概ね仕事が終わった後で休みを取って現地に残って数日過ごしてきた。もしくは後に時間をとって改めて休暇で訪れることが多かった。振り返ってみると、滞在を休暇のために延ばしたり、改めて訪れたことがないところは、思い出せる限りで挙げてみると、上海、ジャカルタ、サイパン・・・だろうか。それぞれ改めて訪れたいと思ったが、今日まで実現していない。マニラでも余暇のための滞在延長はしなかった。訪れるたびに一刻も早く日本へ帰りたいと思っていたからだろう。休暇を取っての再訪も今日まで一度たりともない。

 フィリピンに対して私がこのようだからということではないと思うが、家族もフィリピンとはほとんど縁がない。一族を含めても、訪れた国の数がダントツである旅好きの私の母でさえもフィリピンは未踏の地である。いまでも航空業界にいる弟もずっとフィリピンとは無縁であった。しかし、ビジネスチャンスが生まれ、ここ数年毎年続けてマニラを訪れている。日本にある大使館とも縁ができているようなので、縁遠い国とは感じていないだろう。そして、今回従姉の息子が1年間マニラに赴任することになったので、無縁だったフィリピンに縁ができて、その縁が少しずつ大きくなっていきそうな兆しが見える。

 弟からは、フィリピンにはマニラ以外のところで訪れるにはいいところがたくさんあると聞いた。それぞれ休暇で行ってみようかと思うほどのところだそうだ。・・・う~ん、再訪したいと思うにはもう一押し必要だ。

 従姉の息子が1年後に帰ってきて、現地の話をしてくれたときに、例えば、「一度案内したいと思った行きつけになったいい酒場があるんです。」と英国風パブでの酒席のときのような満面の笑みで言ったとしたら、それは、十分な“もう一押し”になると思う。

追記:                                その従姉の息子には餞別にブラウンのトラベラーズノートを贈りました。   マニラへ行く際に持って行ったスーツケースに、トラベラーズノートに同封したステッカーを貼って出かけて行きました。写真は自宅を出る寸前に撮って、“行って来ます”のメッセージとともにLINEで送ってくれました。逞しくなって帰って来るであろう彼の姿を見ることが、真新しいトラベラーズノートが一年後どのように経年変化をしたかを見せてもらうことともに楽しみです。

画像3


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?