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社会を生きるときに出てくる魅せるへの対抗

そうではない。
どれだけそう思ってきただろうか。

学校で教わる「前ならえ」
部活で言われる「殻を破れ」

違う、そうじゃない。
それではない。
なぜわからない。

ボクはそう言ってるんじゃあない。

説明してるんじゃあもう遅い。
だから、しゃべらず動く

それで行動してそこで通じ合う

何かの成果物とかどうでもいい。

生きがいとかでもない。

行動力とかよくわからない。

それらは、はたから見たらそうかも。
でも、どうでもいい。

別に何かを目指しているとかじゃない。

ただ、気になる目指してもない。

満足がそこにあるからしている。
たったそれだけ。

小学校の通信簿の
「何ごとも興味を持って挑戦しててすばらしい」

知らねえよ。

だって、気になるからやってみたんだ。
一々、評価しないでくれ。
鬱陶しい。

しかし、自己啓発的なまずはやってみれ!でもないのだ、
あれはあれでうざい。

そんなのも捨て去れてって思う。

てか、もうただ生きて、そこから余ったものが誰かのためになればOKだろう。

何だか、この人にハマらないなあ。

そんな仕事をしている人をたとえばテレビで見て
なんか違くねえかって思う。
人ごとにそれへのハマり具合ってあると思う。

そんない身を削らないでって、
自然にとまではいくかも知らないけど、
こう、太陽みたいなそこらにある花みたいな
生き方してたらいいと思う。

ああ、自分もそうだ。
結局、〇〇のためばかりを繰り返して
「今」を正しく楽しめてないことが多い。

そんな繰り返しをして何になる。

1日を満足に生きれないやつは永遠に人生に満足できない。

てか、とにかくやってみろってやつは
何がお前にとって、自然体でやれるかわかんねーからやってみろってことで、成果を短期的に出すためとかがゴールじゃねえのよ。

もっと言えば、お前が何の犠牲もなく、楽しくて、
誰かのために勝手になってるってものだから、やってみたら?
心削るくらいならその方がいいんじゃん?ってことだと思う。

という、自分の呪いの解放のための言葉たちでした。

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