こっち側から見た景色

「お父さんは一番弱いからヤクルトスワローズのファンになってるんだよ、弱者の味方になるんだって」なんて冗談だか、小学生の頃、母から聞いたことがある。

だからか僕は中学に入ったとき、学校一のいじめられ者のたった一人の親友になろうと思った。

かれはT君、声を出せない人だった。

声を出せないことを先生は叱責した。

午前中の国語の授業で彼に音読を命令し、彼が立たされ声を出して読めないと、怒り、必死にコソコソ声で話そうとすると、首をすくめ馬鹿にして笑った。
生徒達にとって先生は絶対だった。
だからみんなも一緒に笑った。

次の授業が始まっても、彼を立たせたままだった。
給食の時間になっても、彼を立たせたままだった。
そんな日が何度も何度もあった。

学校が終わってから、こっそり彼と図書室によく行った。

彼は「即身成仏」について調べていた。「僕は即身成仏になりたいんだ」とコソコソ声でそう言っていた。

僕は何か「かっこいいね」と言った覚えがある。僕は僕の好きな中国史の本か何かを読んで、ほとんど何もしゃべらず、ただ一緒に時を過ごした。
そんな日が何度かあった。

聞けば彼の家は片親で、母はいなく父はエリートで家を空け唯一の兄弟であるお兄さんは成績も良く優等生とのことだ。
おばあちゃんに育てられていたらしい。

一体過去に何があったのか、順調に問題なく来たとは思えない。

彼は、勉強もせず(できず)定時制の学校に入り中退した。

その後彼はピザ屋の雇われ店長となり、そこで出会った女子高生と結婚し、子供が生まれアパートで家族3人で暮らした。
まだ声を出さなかった。声を出さずに社会人として一人前に働けた。

ハッピーエンドではない。
その後、彼は新しい恋人を見つけた。またバイト先の女子高生だ。
駆け落ちした。
それ以来今は連絡も途絶えたままだ。

彼は性格が悪いから、声が出せなかったのか?

性格が悪いのは、誰なのか?

こっち側から見た景色は、とっても生き辛く、苦しい世界だった。

ただしゃべれないだけで、頭もよく、素直な人だった。

でもだんだんと寂しくなり、自信など何も持っていなかった。

まだ子供なのに、誰も認めない価値観で自分を認めて生き抜こうとしていた。
それが即身成仏だった。

結局そばにいても僕は傍観者だった。何もしなかった。

でも学ばせてもらった。

こっち側とあちら側、僕はあくまでこっち側にいることで、自分の人生をまっとうしたいと。
自分の道が定まった。

こっち側から見た景色、これも、真実の景色なんだ。

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