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結局、自分のことは自分でなんとかするしかない。

この1週間ぐらい、インターネットの世界から少しだけ離れていた。もう少し詳しく言えば、ネットに限らず、自分から人と関わることを避けていた。

きっかけは私に関わろうとする人が多くて、そちらの対応に追われたことだった。

「対応」なんて、事務的に聞こえるかもしれない。正確には「相談事をされていた」のだが、冷静さを失わないために敢えて「対応」と言いたい。

どの相談も、重かった。私なりの考えを伝えたのだが、あくまでも私の「考え」であり、相手にとっての「正解」かどうかはわからない。今は正解かもしれないけど、長い目でみたら正解じゃなかったかもしれない。(他の答えのほうが正解だったかもしれない)

答えを出した後も、ずっと、ずっと、考えていた。例えるならこんな感じだ。

重い荷物を「半分持つよ」と言ったものの、重すぎて歩けない。前に進めない。でも、私に相談してくれた相手を失望させたくない、だから、よれよれになっても歩いている。

日に日に、体調が悪くなった。他人のことでこんなに長い期間悩むなんて、初めてだ。

微熱、めまい、頭痛、耳鳴り、動悸が早くなる、ブラックアウト。

「このままじゃまずいな。倒れるかもしれない。」そんなこともぼんやり考えていた。


ある日の朝だった。

出勤のために車を運転していたのだが、どうにも感覚がおかしい。対向車が全部私の車に向かって走ってくる。私はまっすぐ走っているのに。もちろん、気のせいに過ぎない。初めて、運転が怖いと感じた。

その日は、職場でも不思議な感覚に襲われた。すれ違う先生方が、私を睨み付けてくる。なんでこんなに皆さん冷たい目をしているのだろう?全く接点のない方からも睨まれる。私、何かしたのだろうか?これももちろん、気のせいだ。基本、私は他人に興味がない、すれ違う人は「人」として認識してはいるが、「誰か」まではあまり気にしていない。だから、顔もあまり見ていない。そんな私が、人の「目」が気になったのだ。

これは、絶対におかしい。

帰宅後、いつもと変わらずに、Twitterを開く。しかし、そこには自分の頭に、心に響いてくるツイートが、なかった。いつもなら、気軽に知人のツイートや心が動かされたツイートに気軽にいいねをつける。でも、この日は、なかなかいいねを押せるツイートが見つからなかった。それどころか、いつもならいいねを押せていた素敵な人達のツイートに、ぐさぐさと刺されるような気分だった。「お前、ダメなやつだな」と言われているように感じた。

今は、人と関わるときじゃない。

しばらく、人と関わるのはやめよう。自分からアクションを起こしちゃいけない。自分が壊れてしまう。

Twitter、LINE、メッセンジャー、全ての通知音を切った。

音を閉ざした空間に居ると、自分が知っている音、覚えている音が脳内にフラッシュバックしてきた。

相談してきた知人達の、怒ったような声、すすり泣き、ため息。

夜、布団に入っても、なかなか寝付けない。寝ても不思議な夢を見て目覚めてしまう。

46年間生きてきて、他人のことでここまで自分の生活が変化してしまうと言う経験は、初めてだ。どうして、こんなにも本気になってしまうのだろう。いつもなら、もっと客観的に自分の意見を言って、自分が言った言葉に対して振り返るなんてことはほとんどしなかったじゃないか。今回は、何度も何度も自分の言葉の正当性を判断しようとしてしまう。

何が、誰が正しいかなんて、わからない。そんなのは百も承知だ。だから、正しさより楽しさを選んで生きているはずだった。

その自分の信念さえ揺らぐほどに、正しい答えが何なのか、そればかり考えていた。

それどころか、「どうして私はこの人と知り合いになってしまったんだろう」などと、今更考えてもどうしようもないことさえ、考えていた。


そんな状態が、3日ほど続いたある日、本当に偶然に、ものすごく楽しい出来事が起きた。それは、あまりに思いがけなくて、忘れていた笑顔を取り戻すぐらいだった。

「これは、何か運がいいのかもしれない。この数日、不毛な疑問ばかり考えていたけど、この出来事は、今の自分を変えることができるかもしれない」

LINEの通知だけをオンにして、信頼している知人にメッセージを送った。今の自分自身の苦しい状況だけを淡々と伝える、たぶん見た人は大概引いてしまうようなメッセージを。

結果、これで私は立ち直るきっかけを得た。

そのきっかけとは「結局、自分のことは自分でなんとかするしかない」という、一つの言葉だった。

私に相談してきた人達も、もちろん私自身も、自分のことは最終的には自分でなんとかするしかない。わかっていたつもりだった。でも、私は、私に相談してきた人の苦しさや願いなどを、私がなんとかしようと心のどこかで考えていた。相談してくれたのだから解決したい、という思いもあったし、自分の意見を伝えることで相手が変わるのではないかという、ちょっとした奢りのようなものもあったのかもしれない。自分の経験を生かして助けなければ!のような、もしかしたら迷惑な親切心で、自分自身の首も締めていた。息苦しくなるほど、締めあげていた。

自分のことは、自分でなんとかするしかない。

私は、親切心を少しだけ、捨てることにした。


翌日。また新しい相談事のメッセージが舞い込んできた。

「あー、またかー。どうしてこうなっちゃうんだろうな・・・」と思ったが、「親切心は、少しだけ捨てる」と自分自身に約束して、メッセージに返信した。

話が一通り終わった後、驚くほど、引きずっていない自分がいた。

内容はここ最近の相談ごとの重みと大差なかった。これまでと同じように、自分の意見を伝えたが、自分が伝えたことの正しさを問い直すことは全くなかった。正しいかどうかなんてわからない、ただ、意見を聞かれたから答えただけ、と割り切った。

そんなことよりも、「どうして最近私に相談してくる人達は、楽しいことは何も報告してくれないのに、苦しくなると連絡してくるのかな?」「どうしてこういうタイプの人達と知り合っちゃうのかな」なんて考える余裕も出てきた。

その質問の答えは、こうだ。正しいかどうかは知らない。

「どうしてかはわからないけど、こんな私のことが記憶に残ってて、連絡しようかなーって思ってもらえる、っていうだけで、有難いんじゃないかな。」「どうしてかはわからないけど、ま、引き寄せ、ってやつじゃん?その人達と関わって楽しいこともあったんだから、苦しい相談されても、ま、プラマイゼロってことでオールオッケー!」


これが、「私のことは、私がなんとかした」結果である。

私に関わってくれる全ての皆さんに、素直に感謝できる。

ご心配おかけしました。もう、大丈夫です。






特別支援教育に興味を持つ教員です。先生方だけでなく、いろいろな職業の方とお話して視野を広げたいし、夢を叶えたいです。いただいたサポートは、学習支援ボランティアをしている任意団体「みちしるべ」の活動費に使わせていただきます。