無責任な時間と風景の共有

中学の時の同窓会が行われた。
開催されるのは初めてのことで、卒業して以来、二十七年ぶりに集まる。
ひとことで言えば、楽しく可愛らしい三時間だった。
だったんだけど、もう少し書けることがある気がするので思う様に。

中学時代というのは自分の人生の中で最も内向的な暗黒期だった。
何度も後戻りできない道に迷い込みそうになった。
それでも決定的に踏み外さずに済んだ理由の一端が本日垣間見えたというかね。

同窓会には先生たちも参加してくれていた。
少しだけ老いたあの人たちの顔を見ていて思ったんよ。
かっこいい大人に出会っていたんだな、と。
ぶっ飛ばされたこともあったし、涙ながらに説得されたこともあった。
あなたがたがいなかったら今の自分はないでしょう、と。
御本人たちに直接伝えられた。
これだけでも充分な取れ高だったんだけど。

同級生ってなんだろね。
同じ時代、同じ地域に生まれ育ったってだけで、同じ教室に押し込められ、無責任にも同じ時間を共有させられた。
その解はきっと縁なのだろう。
縁はやっぱり愛しいよ。
在学中だって多くの人と接点があったわけじゃない。
今日だって時間の都合で話せない人の方が多かった。
でも、視界に入ったあの人やあの人が、当時の風景を呼び起こさせてくれるし、今の風景も過去の風景も可愛らしくも愛おしくも見せてくれる。
何者でもない、縁でしかなかった14才たちの風景。
俺も誰かが見た風景の一部なんだな、と。
願くば、そうでありたいと、そう思った。
今日、会えなかった人たちとも、そもそも同級生でもなくて何か別の形の縁があった人たちとも、風景を共有したい、いつか。

なんだろう。
恥ずかしくて聴けなくなった曲をまた聴けるようになった感じにも似る。

てなわけで、かっこいい大人を目指すよ、これからも。






余裕がある人は投げつけてみな! たべるから。