トタン屋根という境界

70年代の二俣川を思い出すと駐車場の空き地や布団工場など古い建物はたいていトタン屋根だった。あの波型の形状、雨などでところどころ赤黒く錆びたり腐食した亜鉛の色。

今ではあまり目にすることがなくなったが、トタン屋根は子供と大人の境界線にあるものだった。

兄は小さい頃、窓から出て実家のトタン屋根でマッチを燃やして小さなボヤを起こした。マッチで火がつくのが面白く遊びの延長だった。大人たちにはたまったものではない。その後トタンのその部分は黒く焦げたまま残り、自分は母にそれを訊いて知った。

空き地の駐車場の屋根もトタンで、雨が降っているときに車がないときはその下に入って遊んだ。トタンを叩く雨の音がよく響いた。ボタン、ボツ、ポタポタ。電気などないので屋根の下は暗く、ガソリンの匂いがした。

布団工場はいつも薄暗く、中には入れなかったが周りの敷地を走り回って遊んだ。布団工場のトタン屋根はいつも陰気な影を落としていて、子供たちの無邪気な明るさと不思議なコントラストがあった。布団工場のトタン屋根のあたりは、子供が好きな「秘密基地」であり、いつも空想ながらそれを作ることを夢見ていた。

トタン屋根は期限付きの遊び場で、次第にそんな場所は消えてしまった。いまの子供たちが遊ぶ場にそんな境界は存在しない。子供の場所は子供のためのスペースや公園しかなく、大人と明確に区別されている。

柄谷行人は、そのような「子供」は近代によって発見されたという。そのような区分が生まれたことで、今度は大人になるために成長や成熟が新しく課題になったという。以前は子供はある年になれば自然と大人扱いされた。そのような通過儀礼はあったとしても、成長しなければ大人になれないわけではない。

いまの世の中には境界としてのトタン屋根は存在した方がいいかどうかは自分にはわからない。ただ昭和にはそのような境界はあった。

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