二俣川1970年代、80年代

実家は横浜市の私鉄相模鉄道の二俣川という駅前で酒屋を営んでいた。だが実家は代々この地で長らく商売をしていて、酒屋というのはシン・ゴジラ風に言えば最終形態であった。

創業は江戸の末期で、明治時代には生糸工場も経営していたらしいが衰退し、田舎のよろず屋のような販売店に落ち着いた。

自分が小さい頃はまだ酒以外に肉や果物などの生鮮食品も扱っていたし、人が入れる位の大きさの精肉用の冷蔵庫もあった。

また当時は従兄弟がはじめた喫茶店がレストランになり実家の母屋と酒屋とが裏で繋がっていたので迷路のようになり、子供時代は格好の遊び場だった。

そのころ70年代の二俣川は、実家は駅ビルとは離れてバス停の脇にあり、駅前はまだ住宅があり国道沿いに小さな店が並ぶ田舎であった。そして80年代、中学生の頃に駅前の再開発が進み、取り壊されて店と実家が移転することになる。

それを機に扱う商品が酒類、煙草が中心となった。つまり免許のいる専売のものに集約されてきたわけである。

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