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月におはよう

「私,月から来たの」夜空を見上げて君は言った.

  夜の街には馴染めない.喧騒を避けて入った路地裏で見つけた君はキラキラなのに,まるで捨て猫みたいだった.カウンター越しに話していた相手だと先に気づけたのはどっちだっただろうか.さっきまでとは別人みたいなのはお互い様か.あの時は,まさか君が付いて来るなんて思いもしなかった.

 君の隣で歩いた夜の街は楽しかった.あんなに眩しかったネオンも君と見れば美しくて,君と飲んだ苦い酒は甘い味がした.

 君と空を見上げても,隣でスパンコールのワンピースが煌めいて,月明かりは僕の目には届かなかった.眠らない街で僕だけが満月を見ていた.

 路地裏で出会ったあなたはさっきまでの退屈そうな顔をした人とはまるで別人だったわ.私が大好きなこの街であんな顔をしている人がいるなんて信じられなかった.今晩は退屈な夜になりそうだったから,特別に私のお気に入りを教えてあげようと思ったの.

 私は月におはようを言う.日が沈む頃に私の一日は始まり,朝が始まる頃,私は眠りにつく.

 あの時もう一つ特別に,私はあなたと生きる世界が違うこと,帰るところが違うことを教えてあげた.月から来たと言っても,あなたは私のことばかり見ていたでしょ.男がどこを見てるかなんてお見通しなことをあなたは知らないのね.

 あなたはすぐに寝てしまってたわ.私を見下ろした顔とはかけ離れた子供みたいな寝顔だったわ.あなたと同じ目線でいられる夜は私が強気だけど,昼間に見上げるあなたの優しい笑顔も大好きだった.

 隣で眠っている君は,着飾った君より綺麗だった.朝陽が昇ってもずっと眠っているからいつまでも見惚れてた.並んで歩くと,夜とは違って10cm低い君の目線が愛おしかった.

 君と出会って夕陽が大好きになった.寝起きの君と今日あったことを話す時間が幸せだった.
 あなたと出会って朝陽が大好きになったわ.私だけの青い街は,まるであなたが今から生きる世界を私が創っているみたいだったの.

 君は,君の世界で傷ついてもその世界で生きることを止めなかった.僕の世界にいてくれれば守ってあげられるのに.同じ世界を生きよう.君とずっと一緒にいたいんだ.
 それがだめなら,僕はもう二つの時間を過ごさなければならないことに疲れてしまったよ.

 あなたは朝になれば消えていく男たちとは違った.でも,あなたも私の世界を占領しようとするのね.
 二人で過ごした夜,あなたは真夜中が怖いと言ったわ.何もかも分からなくなる,暗闇が僕の心をかき乱してしまうと.私ならあなたが眠るまで見守ってあげられる.それではダメなの?
 あなたは私に暖かい太陽を教えてくれた.あなたと浴びる陽は私を温かくしてくれたわ.でもね,あなたとの待ち合わせまでの道は手が震えたの.何処にいても私を照らす光はまるで犯人を追うサーチライトのようで,明るい世界では誰かの目線も声も何もかもが見えすぎてしまうの.
 やっぱり私たちは生きる世界が違うのね.


 いつからか君に会わなくなって,夜の街にも行かなくなって暫く経った.やっぱり君に会いたかった.だからまたあの場所に行こうと,君に会おうと思った.でも,勇気が出なくて何日も足踏みしていた.そうこうしているうちに得体の知れない恐怖があっという間に世界を変えてしまった.君のいた場所には誰もいなくなっていた.

 目に見えない何かが私の世界を閉ざしたわ.あなたは私を見つけに来てくれるかしら.
 やっぱりあの場所が私の帰るべきところなの.私の唯一の居場所よ.きっとすぐに戻れるはず.

 僕が間違ってた.君を陽だまりに連れ出すことが君のためになると思ってしまった.違ったんだ.あの夜みたいに,僕たちの重なった時間を二人で過ごす,それで十分なんだ.君と一緒にいられたらそれだけで幸せなんだ.

 私の世界は元には戻らないみたい.誰とも会えない.あなたの傍にいたい,あなたに触れていたい.でも,私たちの生きる世界は異なっていたわ.どれだけ願っても,もうあなたは迎えに来ない.私の居場所は消えてしまった.

 あの場所に行けば何時でも会えると思ってた.どれだけ時間が経とうとも,見えない時でも月は必ず同じ場所にあるから.君はどうしているのか心配だよ.元に戻った時,僕は必ず迎えに行くよ.僕の月は一つしかないんだ.あの夜,見つけたんだ.何処に行こうと僕はもう見失わないよ.

 あれからどれだけ経ったかな,私が生きるための新しい場所を見つけるには十分すぎる時間が過ぎたわ.
 あなたは知ってる?この星以外には月が幾つもあるのよ.私も別の月を見つけることにするわ.期待してその度にまた失うことに疲れたの.今頃あなたも同じように思っているかしら.あなたの生きる世界は広いもの.あなたと同じ世界で生きられる人を見つけているでしょう.


君も同じ気持ちでいてくれ.必ずまた重ねられる.
多分,あなたも私と同じ気持ちね.きっともう重ならない.

太陽にさようなら