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【映画】 象は静かに座っている(19/11/15)

映画の内容に関わる記事です。


昔授業を受けていた人類学の先生が、「良い民族誌は世界の”手触り”を変えてくれるし、私もそういうものを残したい」と言っていた。

まずはじめに男がいる。男は友達の妻の家で朝を迎える。おもむろに遠く離れた満州里の動物園にいる「座ったままの象」の話をする。「もう帰って」と女はいう。女が仕事に出ようとすると、そこに夫が帰ってくる。次に少年がいる。少年はアパートの部屋で何かを作っている。部屋の外からは酔っ払った父の声が聞こえる。「カードを盗っただろ」そんなことをずっと言っている。少年は油条を食べている。少年はクソガキ呼ばわりされる。母が仕事に出るタイミングで少年も家を出る。アパートの階段で少年はマッチをする。あとは少女とおじいさんがいる。少女は家で服を着ている。洗面所に行くとトイレの水が漏れている。「また水が漏れている」と母に叫ぶ。母は居間のソファで寝ている。返事はするが少女のことは見ていない。少女は外に出る。白い大きな犬がうろついている。そしておじいさんは家にいる。「この家は狭くて娘が勉強する場所もないから老人ホームへ行ってくれないか」義理の息子がそう言って彼を説得する。「犬が飼えなくなる」そう言っておじいさんは皿を洗う。そして外に出る。少年と少女は同じ高校に通っている。高校は遠からず取り壊される。「俺は合併先の学校で快適な生活を送る」「俺たちはどうするの?」「何処へでも行けばいい。そして道端で烤肠でも売るんだな」学年の副主任は少年にこう告げる。それからある出来事が起きて少年は学校を飛び出す。家にも帰らず、かつて聞いた、満州里にいる「象」を見に行こうとする。おじいさんは他の年寄りと道端で話をしている。「そのうち老人ホームに行く金も払ってくれなくなるぞ」そんなことを言われる。飼い犬を探している女が「白い大きな犬を見なかったか」とやってくる。おじいさんはその後、自分の飼い犬と散歩に行く。一方男の目の前で帰宅した友人は、男に気付きその場で窓から飛び降りる。男は階下に走って現場を見る。そして彼は女の家を去る。「今日会おう」と別の女に電話をする。少女は家で化粧をする。「ファンデーションを使うんじゃない」と母が口を出す。学校を出た少年はバスにのり小さな動物園のような場所に行く。そこで待ち合わせていた少女に、「一緒に満州里に行かないか」と言う。少女は笑う。そしてその場を離れる。その後少年は自分の持つ高価なビリヤードのキューを担保に金を借りようとする。その時何かをゴミ捨て場に投げ入れたおじいさんが目に入る。その後少年は副主任と少女が二人でいるところを目撃する。そこで男と少年は出会う。「お前は終わりだ」という張り紙を窓ガラスに叩きつけて少年は去る。一方男は服飾店で働く女の元に向かい、二人で食事をとる。しかし店でボヤが発生し、店主を助けようとした男は右手を火傷する。店を出て女と歩く。少女は副主任とホテルに向かう。しかし二人が一緒にいるところを撮影した動画が出回っていることがそこで発覚する。「出て行け俺はもう終わりだ」と副主任は少女に告げる。老人は老人ホームを下見に行く。そこには音がない。色もない。起伏もない。ただただ青みがかった灰色の空気と時間が滞っている。窓から差し込む日差しがなんとも恐ろしい。少年は満州里行きの切符を買いに駅に向かう。少女は家に戻り、副主任といたこと、そのことが学校に知れ渡っていることを母親に告げる。それを聞いた母親は、「そいつと寝たの?」と聞いてくる。「ここにいると吐きそう」そう少女は言う。そこに副主任の妻が殴り込んでくる。少女は飛び出して駅に向かう。そして老人も孫を連れて駅に向かう。



大体こんなことが起こる。ただしところどころ大事なところを省いて書いている。あまり大きくない街であり、その世界は広がりがない。スノードームみたいな閉塞感とはまた違う圧迫感を感じる。それぞれがそれぞれで、今日がここにあってまたしばらくしたら明日が必ずやってくることを受け止めざるをえなくなっている感覚。笑うことも泣くことも、必要のないことに感じてしまう感覚。男に至っては怒ることも無駄なこととなっている。穏やかとは対極の起伏のなさがそこにある。映像、そしてどこかを見ている彼らの目(と口)からそれを思う。そこに包み込まれる。中国映画はその舞台と俳優こそが最も優れたものだと勝手に思ってる。あの街であの顔を映すことができたら、それだけで一つの作品になる。ストーリーとしてもう少し小さなことが起きてもいいのではないか、その方がより一層その希望のなさが際立つのではないかという個人的好みはあれど、上記の二点が全面に出ている点で僕はやっぱりいい映画だと思った。それぞれがただ喋る。それぞれがそれぞれで声を出しているだけで、何も通じ合っていない。少女の家、少年の家、少年の叔父の家、白い犬の飼い主とのやりとり、、、あらゆる場面でそんなことが起きていた。それこそが真に絶望的なことだったし、何となく忘れかけていたものを思い出した。そしてこの映画は、やはり彼らが駅に向かった後に全てが明らかになる感じがした。もやもやしてたものがパッと晴れるという意味ではなくて、全然希望が映し出されるわけではないんだけど、それまでとは違う時間がそこから流れ始めるような。コムニタス的な輝きがそこに見出せる。この場面にきて学校で起きたこととかがああやっぱり必要な出来事だったのかなとか思い始めたりした。とにかくどこかに行こうとして流れを作り出そうとする。バスのフロントガラスを通して見る夜の道路はどこまでも続く。けどはるか先まで見通せるわけじゃなくて。あそこは人が映っていない初めてくらいの画だったと思うけど最高だった。行ったところで結局同じところに戻ってくるかもしれないし、もっとひどいところに着くこともありうるし、どうなるのかは分からない。やっぱりくっきりとした希望はどこにも見られない。でもちょっとだけ動いていること、そしてその中がなぜかとても心地よくて、今だけは全てが身から剥がれ落ちるような感覚があること。4人それぞれが無理に繋がれることなくただ隣同士にいながら同じ方向に向かっていく。最後の数分間は、それに感動して泣きそうになった。ずっとずっと見ていたいと思った。ていうかもう観てるうちに映画が始まってから一体どれくらい時間が経ったのか全く分からなくなって、あと一時間くらいかなとかぼんやり思ってたらそれまでで飛び抜けて好きなシーンが出てきて、ああここめっちゃ好きだここに行きたい戻りたいとか思ってたら、まさにそこで映画は終わった。それがラストシーンだった。その瞬間、ああ来てよかったなあと心から思った。外に出た瞬間、世界の手触りは少なからず変わっていた気がした。



渋谷、シアター イメージフォーラムで上映中です。
http://www.imageforum.co.jp/theatre

https://www.youtube.com/watch?v=HAwPu7iln_4


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