自動車の運転免許について僕が思うこと(2020-2-18)

大学生は長期休暇中に自動車の運転免許を取得することが多い。正確な統計はわからないが、インターネットで「大学生 免許」で検索すると一番上に表示される何やら怪しげなまとめサイトによれば、約7割の大学生が在学中に運転免許を取得するとのことである。

実際、僕の周りの少ない友人も、運転免許を取得するつもりがある、あるいはもう既に取得した人がほとんどである。しかし、僕はあえて声を大にして言いたい、僕は頑として運転免許を取得しない、と(僕は世間の風潮と異なることを声を大にして主張するのが好きである)。

僕は注意力が散漫である。僕が自動車という鉄の塊のハンドルを握ればただでさえ減少している日本の人口をさらに減少させてしまうこと請け合いである。赤子に包丁を持たせてはいけない。

ここで、こういう反論が考えられる。
「免許を取ったからといって、必ずしも運転しなければいけないわけではない」
確かに一理あるかもしれない。しかし、この反論は極めて論理的に反駁される。僕が考えるに、「できる」ことは「する」ことの必要十分条件である。

まず、「する」ならば「できる」ということは特に説得するまでもなく納得していただけると思う。これは言葉の定義上明らかなことである。そして、今僕が示さねばならないのは「できる」ならば「する」ということである。これはもちろん自明ではない。ゆえに、自動車の運転を例に取って説明する。

仮に僕と友人Aが車で日帰り旅行に出かけたとする。これは仮の話なので、僕に旅行をともにするほど親しい友人がいるかどうかは問題ではない。僕は運転免許を持ってはいるが、運転したくないものと仮定しておく。往路は友人Aの運転である。僕が運転したくないのを友人Aは知っているからだ。目的地に着いて二人は観光を楽しみ、日が暮れてきたので夕食を食べることにする。ここで問題が発生する。友人Aが酒を飲みたいと言い出すのだ。もちろんそうなれば復路は僕が運転することになる。日本の法は飲酒運転を禁じている。このとき、僕はそれを止めることのできる合理的な理由を持たない。友人Aの「往路は私が運転したのだから、復路はあなたが運転すべきだ」という主張はまっとうなものであるからだ。

つまり、運転ができるということは運転せざるを得ない状況に追いこまれる可能性があるということだ。ここでマーフィーの法則「失敗する可能性のあるものは、失敗する」を用いて、「運転せざるを得ない可能性があるということは、運転する」を導く。マーフィーの法則が正しいかどうかはここでは検証しない。なぜなら、著名な人物の名を冠した法則というのはたいていの場合正しいからだ。ボイル=シャルルの法則を疑う人はいないはずだ。

以上の論証によって、「できる」ことは「する」ことの必要十分条件であることが示された。また、以上の論証は全て詭弁である。「なるほど、そうだったのか」と納得してしまった人は将来詐欺に騙される可能性が高い。得体の知れない高価な壺などを買わないように気をつけるべきだと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?