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■心からやってみたいことをする

困ってる人のために何かしたい!
私の頭の中によくやってくる考えです。
これで自己満足を測ろうとしていました。

ずっと
そうしなければいけない情報や状況が
あたかもそういう状況が目の前にあるかの様に
現実として現れて来ていました。

この思考(エゴ)が、なんとかしないといけない
という現実を作りだしていました。

とはいえ
この世の中、長ーい年月に渡って、そういう思考に
させられて来ていたという事実もまた最近知りました。

生まれてきたという存在自体が、もうじゅうぶん
誰かの役に立っていて、本当は自由に生きていいはずなのに、そうはさせない仕組みやルール、世間体に刷り込まれた思考で、我がままに生きてはいけない。
が横行していました。

■好きなように生きよう
①変えられないことを手放す
(どうにもできない事をどうにかしようじゃなくその現実を手放す)
②心から自然と沸き起こる気持ち優先で動く
(こうなった方が、こうした方が、周りに喜ばれるのでは?と人からどう思われるか基準をやめる)



①変えられない現実を手放す

◉人生の途中で右上肢身体障害者3級になった私

32歳の時、交通事故で右腕が車体の下敷きになったままアスファルト5m引きずられた結果、元の機能を失いました。
どれだけ動け〜って叫んでも親指、肘から手首は、
自分の意志ではどうにも出来ませんでした。

今まで出来ていたことが突然出来なくなるって
それまで想像したことない気持ちでした。

今、この世に生きている大勢の人が
突然、これまで当たり前に出来ていたことが
「出来なくなった」を経験したのでは?と
思っています。
コロナ騒動による制限もそうですが、
私はたまたま障害者って出来事でそれを感じた
だけで
皆さん多かれ少なかれ何かあると思います。

・自分自身のケガ、病気によっての制限
・いつも当たり前に一緒にいた人の死
・突然の解雇、異動
・理不尽な逮捕、拘束⁈

身体的制限もあれば、目に見えない心の精神的制限も
あるでしょう。

私は障害部位が、長袖を着てしまえば見た目にわからないという特徴により、どちらも感じ取ってしまいました。

こんなにも葛藤するなんて、
人に伝えないと理解されない、
障害部位だけを切り取って見られると
「福祉に結びつけられる」
福祉枠になってしまえば
「挑戦を遮られ」
一般同等の挑戦をしようとすると
「障害部位が邪魔をする」
人生の半ばで
「初めて障害者になったのだから」
どんな事が出来るかやってみないと
まずもって自分がわからないのに
これまでの大半の世間のルールは
なるべく少ない転職回数でひとつの会社に長くいる
が一般的で信用もされるというものでした。

これに納得できずにいましたが、
どうにもなりませんでした。

どうにかしなきゃを捨て、人にどう思われようが
何がなんでも自分の人生を自分が楽しむ、その為に
腕だけで済んで生かされたと感じてそう決めました。

そうひとつ心に軸を作ったことで、
ご近所付き合い、ママ付き合いなど、周りに上辺は合わせせつつも、子ども達に遺したいブレない信念が出来ました。

「自由に選択して生きていい」を見せてきました。
世間で何を言われようが、自由に自分の魂の思うままに選択してOK!を許す寛大さを母として失わないようにしてきました。

それが今、この目に見えないコロナ騒動で、これでよかったんだと答え合わせが出来た気持ちでいます。

常識に囚われない。
誰を信じて何を信じるかに大きく役立ちました。
情報に囚われず、自分の選択を信じています。


②心から沸き起こる気持ち優先

◉やってみたい、行ってみたい、関わってみたい、
喋ってみたい、未知なる世界を覗いてみたい、
本当の自分の魂の声に従う。

この世を去るとき履歴書をもって眠りにつくわけでもなく、それまでに得たお金や物を抱えて持っていけるわけでもない。
いろんな事をやって来れたなぁという経験値は魂が持っていける。
同時にやってみたいことがあったのにしなかったなぁという後悔がなくなる。

そう思うと
常識に囚われない転職回数に働き方、業種、職種様々の経験が出来た私はラッキーでした。

■心から対等で平等で平和な社会

「依存」させて「支援」「課題解決」
これに対価が支払われ、同じ「人同士」の中で、
階層を作り「支配と依存」の繰り返し。

目に見えない心だからこそ
「依存していたい人」と「支配していたい人」が
気づかないうちにどっちかになってしまっている
この世の中。その関係性に生まれるビジネス。


困ってる人のために、何かしなきゃ!の思考は、
いいことのようで、人を人に依存させてしまい、
本当の人の為にならないと感じたんです!

例えば私で言うと

手に障害があると伝えたとたん、
「重い物を持たなくていいよ!」と、ある参加していたイベントの片付け物を取り上げられてしまった経験で感じました。

みんなと一緒に準備したり、片付けしたりが、
嬉しくて、それを楽しんでいた私、もし、したくない思いがあるならば「これは出来ません」と伝えられる口も意志もあるんです。ちゃんと意思表示します。

これでこそ、自分の意志で生きてるって「自由だっ」
と思っているんです。


ここ数年の見えない感染症騒動は、
見た目に障害者とわからない私の世の中への
違和感と矛盾にとても強くリンクしました。

どうにかしなきゃ思考にすぐ引き込まれました。

障害者になる前に出来ていたことへの未練、執着が、いつまでも自分自身を障害者で居させ、
障害者のツラい感情の部分が見える現状や情報を
また見せてきました。

腕の形と機能が変わってしまっただけの
以前と変わらないただの人間です。

本音は
障害者って名称や、健常者と区別する別枠や、
特別扱いや、支援してあげるという上から目線の仕組みや、全て全部が無くなってしまえ!
と思っています。
ただただ自由にその人その人の得意を見てくれたら、それでいい。
その方が対等で平等で自由で幸せです。
これは、別に障害者に限ったことではなく、
全人類に対して何の枠も作って欲しくない
そんな思いです。

この現実を消すためには、私が手放すのみ。
そう気づいたら、開放された気分になったのです。
気付かされました。

気づかせのためにある現実
感謝です。
感謝して手放します。

多くの人が、これまでのこの思考戦の中で、自らの精神性を下げて来ていたんだと思います。

本来、自由なはずの思考を、どうにかしなきゃ状況に追い込みやすい情報や流行が、何も対策しないと膨大な情報源から、毎日毎日だだもれで、イヤでも思考を持っていかれます。

自分では変えられないことは手放し、
解放されていきましょう!楽になります。


それぞれの思うようにいかなかったことを
手放す。自分の意志で手放す。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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